帰 国



 帰る場所が分からない
 すべての酔っぱらいに捧ぐ





一、

 大したことじゃないと思ってた。きっと、いつもの食料品店に行って、冷凍のチキンナゲットとビール、それとマルボロを一箱買うような気分で、帰国できるのかと思ってた。だけどそれはとんだ間違いで、俺は今こうしてすっかりパニックになりながら、一週間後に迫った帰国を迎えようとしている。荷物が多い。何を捨てて、何を持って帰ればいいのか判らない。ここ二ヶ月、いや、半年、自分が冷静だとは、とても言えなかった。イギリスにいるこの二年半の間に、俺は変わった。深酒をするようになり、バーをはしごするようになり、本を読むようになり、詩や小説を書くようになり、女に捨てられることを知った。俺は、すっかり変わった。変わった俺の目から見る日本は、すっかり別の国だといえる。つまり俺は、自分がぜんぜん知らない国に帰ろうとしていて、そこに何があるのか予想はできても、その予想が当たっているのかどうか、判らない。自分がかつて見ていたものが、いったいどんなふうに見えるのか判らない。
「俺はいったい、どこに帰ろうとしているんだ」
 俺は毎日、自問自答を繰り返している。答なんて、出るわけがない。インターネットでニュースを読んだりはしているが、マスコミの情報なんてものは、まず操作されている。何も知らないよりはマシというものだろうが、俺が実際に日本にいて何を感じているか、ということを考える上では、まるで役に立たない。
 日本に帰れば、満足できる仕事があるような気がする。俺を愛してくれる女が待ってくれているような気がする。自分の生まれた国の空気を深々と吸い込み、体の奥底から湧き出て来る安堵に心酔している俺の姿が見えるような気がする。だが、仕事がないような気もする。どの女にも愛されないような気もする。空気を吸い込んでも、いやに油ぎった汚れた空気が、鼻の粘膜にこびりつくだけのような気もする。どっちが正しいのかも判らない。判るのは、俺が帰るってことだけだ。ぽっかりと空いた暗い穴に、無理矢理飛び込んで行くようなものだ。
 何を捨ててよくて、何を捨てちゃいけないのか──。
 俺は荷物をぜんぶ部屋の中に引きずり出すと、その選別を始める。見れば見るほど、何もかも捨てちゃいけないような気になってくる。たとえノート一冊だろうと、そこには俺が手に取り、何かを記してきた証が刻まれていて、ざらついた灰色の裏表紙のちょっとした汚れやワインの染みですらも、俺にはひどく愛おしく感じる。よりわけながら、段ボールに詰め込んで行く。六個、七個と段ボールは増えて行く。とてもじゃないが、送り返すような金もなければ、持って帰れるわけもない。どれかを捨てなくちゃいけない。とりあえず、積み上げたまましばらく放っておくことにする。


二、

 まったく、気が急く。ただでさえ、修士論文を書き上げてないし、そもそも、書き上がる見通しすらも立っていないのだ。俺はクラスでいちばん出来の悪い学生で、落とされても不思議じゃない。俺の英語力が低く、授業をさんざん邪魔したせいで、次の留学生たちに要求される語学レベルが引き上げられることになった。コースの女教授とはひどい言い争いもしたし、酒を飲んで授業に出ることがしばしばあったものだから、心象もよくない。もう、英語で読むのも、書くのも、話すのも、聞くのも、うんざりだ。ここ最近、俺は本当にどうかしている。
「僕は翻訳家になりたいのであって、学者じゃありません。英語がきちんと話せる必要も、書ける必要も、聞ける必要もない。読んで意味が解ればそれでいいのに、なんで英語のレベルで僕を落とそうとするんですか。このコースの趣旨は、文芸の翻訳家を育てることのはずです。英語で落とす理由がありません」
 そんな感じのことを、学部のヘッドと話したばかりだった。非常に的を射ている。実際、俺の翻訳は、担当教授に好評だった。翻訳家を育てるコースで、それなりに翻訳できているのに落とされでもしたら、たまったものじゃない。


三、

 この半年、俺は飲み続けている。去年の暮れに、それまで八ヶ月間一緒に住んでいた女が、昔の男のところに戻るため、帰国した。それ以来、バーとナイトクラブに通い続けている。プリンス・オブ・ウェールズ・ロードという名前の飲み屋通りを端から端まではしごし、二キロほどの道のりを俺のフラットへと歩きながら、さらに何軒かに寄る。その過程をまったく憶えておらず、気づくと自分のベッドで朝を迎えていることもあった。枕のわきにゲロがまき散らしてあって、誰かと思ったが、俺以外に誰もそんなことをするやつはいなかった。
 とにかく、気ばかり焦る。俺はいったい、どこに帰ろうとしているんだ。
 幸いなことに、俺には女がいない。いたら、きっと苦しめてしまうだろう。いや、もしかしたら、少しは気が楽になるのかもしれない。どっちか判らないが、いずれにしろ、女はいない。女の肌に憧れる。自分の甘えを感じる瞬間は、いつだって嫌なものだ。俺は今日も、荷物と参考書でごった返した部屋を抜け出して、飲みに出る。今夜は、裸にならないと眠れそうにない。自分の肌だろうと、触れられないよりはずいぶんましだ。
 フラットからいちばん近いところにあるバー、プリンス・オブ・デンマークに入る。引っ越してきて初めて入ったバーだ。ド田舎ノーリッチにある超ローカル・パブで、俺以外に外人が入っているのを見たことがない。初めて足を踏み入れたときは、カウンターにいた客たちが全員俺のほうを珍しそうに見た。もしかしたら、連中は誰にだってそうするのかもしれなかったが、そんなことは、俺には関係なかった。
「ベックスをボトルで」俺は、二ポンド硬貨をバーマンに手渡しながら注文する。彼が素手で瓶を開け、俺に手渡す。カウンターの面々を見ると、ジャックという中年太りのはげ頭が、いつも通り、絶望的な空気をかもし出しながら飲んでいる。最近、なんとなく話すようになったおやじだ。
「やあ、ジャック」俺は瓶を持って、彼の隣のスツールに腰掛ける。
「やあ、シモン」と、彼も挨拶を返す。
 ジャックは、すっかり生きる気力すらも奪われたような目をして、視線を宙に泳がせている。俺は、特に話しかけないでおく。
 相変わらず、汚いバーだ。しっくいの壁はすっかり薄汚れ、床のマットはすり切れ、なによりも、集まっている連中が、みんなどんよりしている。一度だけ、二ヶ月ほど前に、やけに明るい女の店員が入ったが、二週間と経たずに姿を見なくなった。
「最近どうだ」ジャックが、虚ろな目を俺に向ける。
「来週、日本に帰るんだ」
「帰るのか。そうか……。日本に帰るのか」と、彼が無表情に言いながら、グラスに口をつける。飲んでいるというより、唇を湿らせるように。
「ああ。日本に」俺は、ベックスを一口飲む。近くに座っているマンチェスター・ユナイテッド嫌いの客が、「ベックスなんてやめちまえ!」と、笑いながら絡んでくる。ベックスは、ベッカムのファンが飲むものだと、連中は思っている。このバーに集まってくるフットボール・ファンは、大体イプスウィッチかノーリッチのファンだ。
 奥のテーブル席のほうから、老夫婦が楽しげに笑う声が聞こえてくる。いつもあの夫婦は、夕方にやってきては、テーブル席でマリファナを吸ってる。ノーリッチは、オランダに面した海が近いせいで、マリファナの密輸が多いのだという。飲んでいると、しょっちゅう勧められる。
「どんな気分だ?」とジャックが俺に訊いてくる。
「飲まずにはいられない」と俺が答える。
 ジャックは、弱々しく笑ってみせる。
「そうか」言いながら、ジャックは深くうなずく。「そうか。うん……」
「怖いよ、帰るのは。まるで、知らない国に行くみたいだ」
「それはおかしいな。日本から来たくせに」
「ジャックは今日、家に帰るのが怖くない?」俺が訊く。「俺は、自分のフラットに帰るのですら、怖いよ」
 ジャックはグラスを置くと、両手に顔を埋めて、長いため息をついた。腹の底からこみ上げてくる、分厚いため息だ。はげ上がった頭に、だらしなく髪の毛が巻き付いている。赤く上気した地肌。太く節くれ立った指。彼が生きてきたという、残酷な刻印だ。
「娘と息子が帰ってくるんだよ」ジャックは顔から手を離すと、カウンターに視線を落としたまま言う。
「よかったじゃないか」俺は答える。ジャックの子供たちは、奥さんが出ていったすぐ後に、ロンドンに引っ越して行ってしまったのだと、初めて話をしたときに聞いていた。
「でも、離れてる間に、人は変わっちまう」ジャックが言う。「シモンみたいに。息子も、娘も、わたしも。わたしはもう、ただの孤独な老いぼれで、息子たちは立派にやってる。合わせる顔がない」
 確かにジャックは、父親、という感じがしない。ただの、だらしなく太ったはげ頭の酔っぱらいだ。彼に子供がいるということが、まず想像がつかない。いつ来ても、大体同じ席に座って、どんよりとしながら飲んでいる。
「去年までは、もうちょっと違ったんだ」とジャックが言う。「郊外にある、車の工場で働いてたんだよ。でも、クビになった」彼はグラスの酒を一気にあおると、もう一杯同じものを注文する。「クビだ」
「気の毒に」と俺は言って、新しい煙草に火をつける。ジャックにも勧めたが、彼は手をぱたぱたと振って辞退する。
 うしろのテーブル席から、老夫婦の笑い声が聞こえてくる。奥のスクリーンではフットボールの試合をやっていて、何人かの若い連中が、怒鳴り声をあげながら観戦している。バーマンが、スコッチの水割りを持ってきて、ジャックの前に置く。
「また落ち込んでんのかい」と彼がジャックをからかうように言う。
「落ち込んでないなんていうことは、考えられない」とジャックが答える。
「少しは、なにかしてみろ。気が楽になるようなことをさ」とバーマンが言う。
「気が楽になったら、ここには来ないよ。つまり、売り上げが落ちる」
「じゃあ、楽にならなくていいぜ」バーマンは楽しそうに笑う。
 ジャックがあまりにも陰鬱そうにしているものだから、俺はなんだか、自分が明るい気持ちにでもなったかのような気分になる。コントラストというやつだ。
「さっき聞こえたんだけど、来週帰んのかい?」と、バーマンが今度は俺に訊く。
「そう、来週。朝八時の便で、ヒースローから。ノーリッチ発にすればよかったよ」俺が言う。
「わお。そりゃあ大変だ。準備は終わったのか? 飲んでる場合か?」
「いいんだ」と俺が答える。「いずれにしろ、帰るんだから」
「じゃあ、飲んで行きな。次はなににする?」彼はカウンターの上に両手をつき、空になった俺のベックスをあごで指しながら言う。
「ベックスを」と、俺は瓶の口を人差し指と親指でつまみ、ぷらぷらと揺らす。
「だからベックスなんてやめちまえよ!」と、さっきの男が横からしゃしゃり出てくる。「マット・バスビーと一緒に、マンUは死んだんだ! 今じゃあ、ただの金満チームだぜ。ファーディナントまで獲りやがって。いっそのこと、オーウェンもミルズも獲っちまって、マンUをイングランド代表にすりゃあいいんだ!」
 奥のスクリーンでフットボールを観戦している若い連中が、こちらを振り向いて拳を突き上げながら、賛同の雄叫びをあげる。バーマンは、ベックスを持ってくると、手で栓を開けて、俺の前に置く。ジャックは、両手に顔をうずめながら、カウンターを睨み付けている。
「なあ、息子と娘が帰ってくるんだよ。息子と娘が……」と、俺に言っているのか、それともバーマンに言っているのか判らないが、彼が言う。
 俺もバーマンも、お互いに返事を譲った結果、ジャックを無視するような感じになる。テーブル席からは、まだ老夫婦の笑い声が聞こえてきている。
「ベッカムなんて、ボールが止まってねぇと蹴ることもできねえ!」後ろでは若い連中の、マンチェスター・ユナイテッドへのアンチ魂に火がついたところだ。
 俺たちは黙ったまま、一時間ほど飲んだ。俺は、本棚から持ってきた詩集を読んでいた。最近他のバーで知りあった、コリン・クロスという地元の詩人の手作り詩集だ。俺は、彼の詩が気に入っている。どれひとつとっても、駄作というものがない。ウィットに富んでいるが、苦しみを感じさせる。
「クビになってからすっかり、老いぼれたんだ。合わせる顔がない」ジャックは、相変わらずの様子で、誰にともなくぼやいている。
「なあ、ジャック」とバーマンが言う。「もう帰ったほうがいいぜ、今日は。な。そうしろよ」
 壁に、バーの常連たちの写真がところ狭しと貼られてある。その中の一枚に、楽しそうにはしゃぐジャックが写っているのを、俺は見つける。カウンターのジャックは、片手で髪の毛をかきむしるようにしながら、酒をあおり続けている。同じ顔、同じはげ頭、同じ体型をしているが、同一人物とは思えないほど、写真の彼は楽しそうにしている。俺も、ジャックは帰ったほうがいいんじゃないかと思え始めてくる。
「よし、俺はこれを飲んだら帰るよ。表まで一緒に出よう」俺はジャックの肩を叩く。思えば、人の体に触れるのは久しぶりだ。その生々しい感触に、妙な安堵感を憶える。
「そうだ。そうするといい。今夜は天気もいいぞ。散歩して帰れ」と、バーマンがジャックのほうに身を乗り出す。
 ジャックはグラスを一気にあおって空にすると、よろよろとした足取りでスツールを立ち、出入り口へと歩き始める。俺も、バーマンに「また」と言い残して、その後を追う。
 プリンス・オブ・デンマークの前の交差点へと、俺たちは一緒に歩く。
「わたしは、そこを右だ。シモンは?」
「左だよ」と俺が言う。言っている間に、交差点にさしかかる。歩行者信号が赤で、俺は待たなくちゃいけなくなる。車が次々と通り過ぎて行く。ライトがやけにまぶしい。ジャックは、信号が変わるのを待ってくれている。
「気にしないでいいよ。行って」と俺が言う。
「いや、待とう」ジャックが言う。
「ありがとう」俺が言う。
 信号は、なかなか変わらない。俺は、押しボタン式になっているのに気づいて、慌ててボタンを押す。
「シモン」と、ジャックが背中から俺を呼ぶと、「ありがとう」と言う。
「気にしないでいいよ」俺は、なぜ礼を言われたのかよく判らない。だがきっと、彼にとっては礼を言うだけのことが、あったのだろう。俺は、握手をしてから別れようと、彼に向き直り、右手を差し出す。ジャックはその手をしっかりと握りしめる。彼が酔っぱらっているとばかり思っていた俺は、その握力に驚く。そして、そのごつごつとした手の感触のリアルさに。
「ありがとう」
 ジャックはもう一度そう言うと、俺にハグをしてくる。俺も、ジャックの背中に手を回し、ハグを返す。脇腹の肉に俺の腕が当たり、俺は、ジャックは人間なんだと痛感する。
「息子さんも娘さんも、大丈夫だ。同じくらい、不安になって帰ってくるさ」俺が言う。
「そういうものかね」ジャックが、腹をぼりぼりと掻きながら言う。
「自分は違ったのかい?」
「そうだな。そのとおりだ」ジャックは軽くうなずくと、笑ってみせる。「わたしからも、ひとつ言おう」
「なにを?」
「シモンも、心配しないで帰るといい。そうとしかできないんだから。誰もお前のことを待っていない、なんてことはない。人は温かい。あのバーの連中みたいにね。離れてるから、なんとなく怖いような気がするだけだ」
「そう思うよ。ありがとう」
  青になっていた歩行者信号が、また赤になった。俺はまた押しボタンを押す。
「今度青になったら、本当に行くよ」
「ああ。またデンマークで会おう」
 俺とジャックは、また握手を交わす。俺たちの横を、車がつぎつぎと通り過ぎて行く。
「それじゃあ」信号が青になり、俺は手を離す。
「またな」ジャックは、気恥ずかしそうに、握手していた手を俺に振ってみせる。
 信号を渡り終えて振り向くと、ちょうど、深く茂った街路樹のまっ暗な影に、ジャックの背中が吸い込まれるところだった。俺は、フラットへと続くギルマン・ロードのゆったりとした上り坂を歩き始める。この辺りは団地のようになっていて、歩いていると、あちこちの家のリビング・ルームが見える。どこの窓にも温かく灯りがともり、楽しそうな笑い声が、どこからか決まって聞こえてくる。いつもならば、それを目にし、耳にするたびに、これから電気の消えた広い部屋に戻るのがたまらなく悲しくなったが、今日は、いい気分だ。むしろ、彼らのリビング・ルームに乱入して、クラッカーでも鳴らしながら祝ってやりたい気分だ。世界中、どこへ行っても人は孤独と戯れていて、虚無感にさいなまれていて、恐怖を感じ続けている。



四、

 フラットに戻り、冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに腰掛ける。勉強机のところからプラスチックの椅子を持ってきて、目の前に置く。そして、その上にビールとノートを置いて、俺は詩を書くことにする。ろくな詩が書けるような気分じゃないが、今日の温かい気持ちのことは、書けそうだ。自分の部屋でリラックスしたせいか、いきなり酔いが回ってくる。目をつぶると、十人くらいのマッチョな男たちが俺の体を持ち上げ、回転させ、頭を下にして振り回し始める。俺はたまらずトイレに駆け込むと、便器にしがみついて、胃の中のものをぜんぶ吐き出す。鼻の奥になにか引っかかって、つんとした痛みに襲われる。パスタか、そうでなければチキンだ。吐いてしまうといくらかすっきりして、俺はまたリビングに戻り、ソファに座る。


 世界中
 どこに行っても
 人は
 狂気と
 戯れながら、
 お前を待っている。

 人生は
 無慈悲だが、
 お前は
 違う。

 そして、
 お前を待っている
 そいつらも
 違う。

 中年太りの
 あの男の
 脇腹についた
 肉は、
 世界中の誰よりも
 雄弁な、
 孤独と
 喪失感と
 虚無感の
 証人だった。

 俺は
 それを触った
 この手で
 女を
 抱きしめたい。




五、

 その夜、俺は積み上げた段ボールのうち、なにを入れたか思い出せないものを片っ端から捨てることにした。中身を確かめず、どんどん捨てる。いい気分だ。一緒に住んでいた女の自転車は、明日、街に売りに行くことにする。これは相当やりきれない作業になりそうだ。俺は、彼女の尻が乗っていたサドルにキスをする。そのまま、抱きしめて眠ってしまいたいような気持ちにすらなってくる。あと一週間で彼女との思い出にもおさらばだ。そう思うと、キッチンで彼女に殴られた腹の痛みも、愛せるような気になってくる。ヒースロー空港で最後に俺と抱き合って泣いた彼女は、本当に、俺との別れを惜しんでいたんだ。それで帳消しだ。
 相変わらず、帰国は怖い。「帰国」という言葉自体、もう違うような気がする。俺は、飛び込んで行く。ぽっかりと目の前に空いた、正体不明の穴に。もしも誰か、受け止めてくれるやつが底にいれば、それでいい。いなければいないで、暗い穴の底からでも、誰かを愛していればいい。どうせ人は、死ぬまで生きなければならないのだ。