エメルージュの飛行船
志文
このエメルージュの町には年に一回、巨大な飛行船がやってくる。飛行船は、黄土色をしたその巨体を誇るかのように、ゆっくりと、威厳を漂わせながら、町の上を横切ってゆく。来るのはいつも決まって初夏のころのことだ。
梅雨が明けると、近隣の森や雑木林では、草の一本一本にまでたくましい力がみなぎり、触ったら指が切れてしまいそうなほど、葉の輪郭がするどく引き締まる。空気は、春先の柔らかく優しい空気ではなく、浮気がちな芸術家の女のように情熱的で、まっすぐで、どこか素っ気なくなる。力強い太陽が、せいぜい数十軒の家々の屋根を照らし出すと、屋根はまるでエサを運んできた親鳥に向けて口を開けながら騒ぎ立てる雛鳥たちのように、きらきらとその光を反射させる。そして、飛行船はそのすべてを影の中に飲み込むようにしながら、ゆっくりと、ゆっくりと、町の上を通り過ぎ、やがて、北にそびえる、豊かな脚の長い草に覆われた緑の丘の向こうへと、その姿を消してゆくのだ。
子供たちは誰かが飛行船の姿を海の沖合に見つけると、できるだけ近くで見ようとして、我先にと北の丘のてっぺんへと先を争って駆け登ってゆく。そして、轟音を響かせながら頭上を通り過ぎてゆく飛行船の巨大な姿に目を奪われ、その影に自分や町がすっぽりと飲み込まれることに、胸の底から興奮するのだ。
その飛行船がいったい何の目的で飛んでいて、いったい誰が乗っているのかは、町の誰ひとりとして知らなかった。胴体にもなにも書かれていなかったし、窓から誰かが顔を覗かせていることもなかった。だから、町の人たちは「どうせどこかの金持ちが、初夏を楽しみに飛ばしているんだろう」ということにしていた。実際、その説明は自然だったし、そもそも、本当は誰も真実を知りたいなどとは思っていなかった。ただ自分が納得できれば、それでよかったのだ。だが、かつてひとりだけ、本当に飛行船の真実を知りたがった人がいた。僕の家の隣に住んでいた、エリカという僕と同い年の女の子だった。
あれはもう、何年前だったろう。かれこれ十四、五年前にはなるはずだから、彼女はたぶん、十二、三歳だったのだと思う。エリカは夏の太陽の下でもまっ黒い髪の毛と、雪と見分けのつかないほど白い肌を持った、美しい少女だった。冬には彼女の母が編んだ赤いセーターを着て、夏にはやはり母が縫った白いワンピースを着ていた。僕たちは隣同士だったこともあり、よく一緒に遊んだ。子供のころから、僕たちは一緒に飛行船を見に丘に登ったものだった。僕たちふたりは、自分たちの頭上に飛行船の先端が差し掛かると、胸を躍らせながら手をつないで地面に仰向けになった。
「ルー、目を動かしちゃだめよ」エリカはいつもそう言った。「目を動かさないで、飛行船が通り過ぎるまでずっと見るの」
僕はいつだって、彼女の言うようにぎゅっと視線を一点に絞ろうとがんばった。だが、そうすればするほど、僕の目はまるで見えないフックに引っかけられでもしたかのように、飛行船の一点につられて動いてしまった。それに彼女が気づいていないか確かめようと、隣で寝転がっている彼女の顔をちらりと盗み見ると、彼女は興奮に満ちあふれたまなざしで、飛行船をしっかりと見据え、半開きの口から感嘆のため息をついているのだった。
十二歳か十三歳か、とにかくエリカがいなくなったあの日。せっかく飛行船がやってきたというのに、僕は風邪をこじらせていて、ベッドに潜り込んでいた。三十九度くらい熱が出ていて、動きたくてもどうにも動けず、窓から飛行船を見上げるのが精一杯だった。丘のてっぺんに目を凝らすと、飛び跳ねたり駆け回っている子供たちの影が、まるでアリの行列のように小さく見えた。僕は、その辺りで寝転がっているはずのエリカの横顔を想像した。そして、あとでどんなだったか彼女から聞かせてもらおうと思いながら、丘の向こうへと消えてゆく飛行船の姿を眺めた。
だが、エリカは戻ってこなかった。夜になって町の人々が捜索隊を組んだものの、どこにもエリカの姿は見あたらなかった。彼女の両親は悲しみに打ちひしがれ、日に日に、町の人々との関わり合いを持たなくなっていった。何年か経って、一家は誰の目にも留まらないまま、町から出て行ってしまった。まるで、僕だけが彼女を待ち続けなくてはならないような、そんな気持ちになった。
いつからか僕は、エリカは飛行船に連れて行かれたのだと思うようになった。それならば、どこを探しても彼女が見つからないのも説明がつく。それに、あの好奇に満ちた彼女の目を思うと、エリカが飛行船に乗って行ってしまったというのは、ごく納得のいく説明であるように思えた。僕は悔やんだ。あのとき、ほんのちょっと無理をして、彼女と一緒に丘に登ってさえいたなら、こんなことにはならなかったはずだ。彼女はきっと美しい女に成長して、僕と一緒に住んでいたのかもしれない。その思いは、日を追うごとにどんどん強くなっていった。今ではもう、彼女はあの飛行船に乗っているのだと信じている。
今年も、そろそろ飛行船の季節になる。僕は今年、その日を迎えるにあたって、大きな決意をひとつ固めていた。それは、彼女が乗っているかいないか確かめてやろうということだ。僕は西の街に出かけると、なけなしの貯金をはたいて大きな望遠鏡を買い、エリカと一緒に登ったのとは別の丘に、これまた大きなやぐらを組んだ。そのてっぺんに望遠鏡を置けば、多少見上げる角度にはなるものの、飛行船がちょうど真横から捉えられる。窓の中に誰が乗っているのか、確かめることができるのだ。梅雨が明けてから毎日、僕は毎晩望遠鏡のレンズを磨き続けた。彼女のどんな小さな表情も、決して見落とすまいとして。
ある朝、僕は子供たちの歓声で目を覚ますと、勢いよくベッドから跳ね起きた。その歓声ならば、よく知っていた。僕自身もかつて挙げたのと同じ歓声だ。飛行船がやってきたのだ。僕は窓から身を乗り出すと、海の沖合に目を凝らした。黄土色の大きな飛行船が、水平線上に音もなく浮かんでいるのが見える。僕は大急ぎで着替えると靴をはき、やぐらのある丘へと一気に駆け登った。子供のころならば大して苦にもならなかったのに、いざこの歳で駆け登るのは、なかなか簡単ではなかった。胸は痛み、息が上がり、太ももと膝がそろって悲鳴を挙げる。だが、立ち止まっている暇はない。僕は、ほとんど転がるようにしながらやぐらへとたどり着くと、息を弾ませながらはしごを登りきった。
ようやくてっぺんに登り着き、肩で息をしながら飛行船のほうへと目を向けると、まだ町の上空にも差し掛かっていない。僕は望遠鏡を覗き込み、スコープの中に飛行船を捉え、ピントを合わせる。くっきりと、ゴンドラの木目までが見える。これならば、窓の中にエリカがいれば、まず間違いなく見つけることができるはずだ。ようやく訪れたこの瞬間をまさに迎えようとしている今、僕の心臓は破裂しそうなほど高鳴った。
影の先端が、町の中央にそびえ立っている石造りの教会の塔を隠す。窓から空を見上げている人々や、通りに走り出してきている人たちが見える。その上を、飛行音を響かせながら、飛行船がゆっくりと進んでゆく。僕はまた、望遠鏡を覗き込み、ゴンドラの側面にならんだ真鍮の窓枠をスコープの中に探す。捉えたいような捉えたくないような、複雑な気持ちが胸の中にうずまき、僕は思わず生唾をごくりと飲み込む。待ちわびた瞬間を決して見逃すまいと、まばたきをできるだけしないで済むよう、一度ぎゅっと瞼を堅く閉じてから開く。スコープの端に真鍮の窓枠が入り、見る間に窓全体が大写しになる。僕は、その光景に思わず短い叫び声を挙げる。
中では、中世のヨーロッパ貴族のような服装をした人々が、ダンスを踊ったり、ワイングラスを傾けたりしている。トランプの手品をしているピエロもいる。奥のほうでは弦楽四重奏団がなにか演奏していて、白い手袋の美しい婦人が、隣に立っている紳士の頬を、その指の背で優しく撫でている。どの窓からも、そんな光景が見て取れた。なにより僕を驚かせたのは、僕が彼らのひとりひとりに見覚えがあったことだった。彼らは皆、今はもう死んでしまってはいたが、かつてエメルージュに住んでいた人たちだったのだ。
僕にはもう、なにがなんだか分からなかった。彼女を見つけるのだという目的を忘れかけた僕は一度望遠鏡から目をはずして、頭を軽く横に振ってから、また望遠鏡にかぶりつく。そして僕は見たのだ。いちばん最後の窓際に、タキシードを着た紳士と向き合うように机を挟んで座っている彼女の姿を。しかも、彼女と紳士に挟まれるようにして座っているのは、彼女の両親だった。僕にはその紳士の顔にも、どこか見覚えがあった。
彼女は、羽根飾りのついたつばの広い大きな帽子をかぶり、肩のあいた薄いブルーのドレスを着ていた。胸元には透明な宝石のついたネックレスが光っていた。僕の想像通りに豊かに伸びた黒髪と、最後に見たのとなにも変わらない、柔らかい雪のような肌。彼女がしゃべりながらひらひらと動かす指先はしなやかで、まるで、若い枝のように細く、瑞々しく、美しかった。ほのかに赤い唇だけが鮮やかで、そのつややかさは僕の視線を釘付けにした。
「エリカ!」僕は思わずそう叫んでいた。
だが、その声が彼女に届くはずもない。飛行船が僕の目の前を通り過ぎ、やがて彼女の姿はすっかり窓枠に隠れ、望遠鏡を覗いても見えなくなってしまった。
もう、いても立ってもいられなかった。僕は大急ぎでやぐらを駆け下りると、飛行船の後を追って走り出した。空を見上げながら走るせいで、ときおり石や木の根につまづいて、僕は草の上に倒れ込んだ。だが、ぜったいに飛行船に追いついてやるのだと、僕はどんなに息が苦しくなっても、起きあがり、走り出すのをやめなかった。いつの間にか足下の草はなくなり、ごつごつとした土の地面になった。走ってこんなに町から離れたのは、生まれて初めてだった。飛行船との距離は、まだそんなに離れていなかった。どこまで追いかけられるのか分からないが、どこへ向かうのかくらいは見届けられるかもしれないと思った。
ずっと飛行船を見上げているせいで、首の筋肉が悲鳴を挙げていた。脚にもだんだん力が入らなくなってきている。もう、追いかけるのも限界に近づいてきていた。それでも僕は、必死に飛行船の後を追った。そしてふと足場を失った。僕の足がばたつきながら空を切り、体が固い地面に叩きつけられる。僕はそのままごろごろと転がり落ちる。そして、とがった葉を持つ深い茂みの中に転がり落ち、地面に叩きつけられる。背中をしたたか打ったせいで呼吸ができず、僕は空気を求めて口をぱくぱく動かす。飛行船の姿は、茂みや木々に遮られて、見えなくなってしまった。飛行音がしばらく聞こえている気がしていたが、やがてすっかり聞こえなくなった。
ようやく呼吸の落ち着いた僕は茂みから這い出すと立ち上がり、体中についた土を払った。見上げれば、数メートルほどの崖から落ちたようだということが分かった。僕は、なんとか上にはい上がれないものかとあたりをうろつき回った。だが斜面は急で、足がかりになりそうなものも、これと言って見つからなかった。僕は途方に暮れ、丸く弧を描くように続いている崖沿いを歩き始めた。もしかしたら、どこかに着くかもしれないと、かすかな期待を胸に抱きながら。
しばらく歩いたところに、大きな平たい岩があった。僕は思わず息を飲んだ。その岩に寄りかかるようにして、一体の白骨死体が座った姿勢のまま転がっていたからだ。死体は、かつてワンピースだったに違いない白い布きれを身につけていた。その頭蓋骨にはすっかり汚れた黒い髪の毛がくっついていた。
エリカに間違いなかった。僕は彼女の正面に力無くひざまづくと、がっくりとうなだれるように垂れ下がった彼女の頭に触れようと手を伸ばした。だが、触れば崩れ落ちてしまいそうで、なかなか触ることができなかった。手が、ぶるぶると震える。どうしてよいのか分からずその全身を見れば、左足の臑の骨が、まん中あたりで折れている。姿を消してからの十年以上、彼女はここにこうしていたのだ。おそらく、僕と同じように飛行船を追いかけ、ここに落ちてしまったのに違いなかった。どうにか這い上がろうとしたのだろうが、おそらく、落ちたときに左足を折ってしまったのだろう、彼女にはどうすることもできず、絶望に打ちひしがれていたのだ。やがて腹を空かせ、ふらふらと彼女が歩き出す。そして、すっかり疲れ果てた彼女はこの岩にもたれて眠るように死んだのかもしれない。想像すればするほど、僕は胸が苦しくなった。こんなところで、さぞかし孤独だったろうに。涙がこぼれ、震える指先が彼女の頭に当たった。彼女の頭蓋骨が地面に転がり落ち、それでバランスを失ったのか、体の骨も横向きにずり落ちるようにして地面に転がった。僕は上着を脱ぐとその骨を残さず拾い上げ、くるみ、腰に縛り付けた。そして、なんとか崖を登りきると町へと引き返し、教会の納骨堂に納めた。
それからしばらくして、僕は町を離れた。帰ってくるつもりはなかった。だが、やがて自分が死を迎えるときには、必ずこのエメルージュに帰ってこよう。それだけは、固く胸に誓っていた。そして、あの飛行船に、僕も乗るのだ。
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