ネイル・ハート


一、

 東の町に、ルーパス・ハートとアイーダ・ハートという夫婦が住んでいる。

 今年で四十歳になるルーパスは、高速道路の料金所で働いている。来る日も来る日も、自分のブースの前に並んだ長い長い車の列を眺めながら、料金を受け取り、釣り銭とレシートを渡しながら日々を送っている。ときどき、妙に気分がやさぐれ、幼いころに家を出て行った父親のことが頭から離れないような日には、ドライバーがちょっと窓口から離れたところに停車しただけで、その窓ガラスを叩き割ってやりたいほどに気が立つ日もある。だが、思いがけずドライバーから「お疲れさま」だとか「ご苦労さま」だとか声をかけられると、とても人なつこい笑顔で「気をつけて」とほほえみ返すのだった。
 彼の顔は子供のころの面影をかすかに、だがはっきりそうと分かるように残してはいたが、少しずつ額が広くなってきている。母親に似ていないのだから、たぶん父親似なのだろう。そう思うと、ルーパスの胸は痛む。なにせ、確かめようがないのだ。父の写真は、母がぜんぶ焼き捨ててしまった。眼鏡をはずして鏡を覗きこむと、口元や頬に刻まれた皺が消えてみえるせいで、まるで大学生のころに戻ったような気分になれることもある。
 大学生のころ、彼はロックバンドを組んでいた。プロになるつもりではいたが、自分がそうなれないだろうというのも良く分かっていた。だから彼は、バンドのメンバーたちと酒を飲みながら、消費社会に毒された音楽業界に熱い意見をぶちまけてみたり、「このまま俺は生きたい」という子供じみたわがままを、思いつく限りの社会批判に仕立て上げて歌にしてみたりしていた。当時はどちらも本気だったが、今にして思えば、どちらも嘘だった。ただ、今になっても妻のアイーダには、それを認めたがらない。「俺はこのままでは終わらない」と思い続けているうちに、すっかり、そんなことは言っていられない年齢になった。今の彼には、毎日ちゃんと食事を摂ることができるのが、いちばん尊いことのように思えてならない。
 バンドマンだったころの彼は、スリムの代名詞といえた。一七○センチの身長の割に体重は五○キロそこそこで、いつでもぴっちりとした黒いジーンズを履いていた。同級生の女の子たちは、その彼の脚をいつも羨ましがった。だが、今となっては、尻はたるみ、皮膚は汚れ、まるでベルトに乗っかるようにして、脇腹の肉が垂れ下がっていた。彼はいつでも着替えるときには、悲しそうにその肉をぶよぶよとつまみながら「そろそろ本当にどうにかしなくちゃなあ」とため息をつくが、結局のところ、なにもしないまま十年が過ぎようとしている。それに、妻のアイーダは、その肉が割と気に入っている。

 ルーパスより四つ年下のアイーダは、ごくごく平凡な女だった。学生のころも成績優秀とはいえず、かといって、落ちこぼれでもなかった。中くらいの成績で大学を卒業すると、ある会社で事務職に就いた。それから三年経ち、ルーパスと結婚して寿退社するまで、彼女は結局、自分の会社が厳密にはなにをしているのか、はっきりと分からずじまいだった。それを知ろうという気持ち自体が薄かったのもあったが、二年目以降は、その気持ち自体がなくなってしまったのだ。
 小柄な彼女は、家庭に入って家事をこなし始めると、ますます小柄に見えた。初めは、愛するルーパスとようやく一緒になれた歓びのおかげで、希望と愛情に燃えて家事をすることができたが、やがて、愛し愛される日々が当たり前になりはじめたある春の午後、彼女の胸に「愛って本当にこんなものなのかしら」という疑問が、ぽつりと浮かんだ。それは、まっ白い紙の上に落とされた小さなインクの染みのようなものだったが、いちどそこに「染みがある」と思うと、否応なしに目が行ってしまった。染みは毎日毎日すこしずつ大きくなり、やがて、元の紙が本当に白かったのかすら、彼女には分からなくなった。愛への疑惑は、過去に彼女が体験した恋愛をすべて引き連れて、どこかへ連れ去ろうとしていた。彼女はもう、自分が本当の愛を知らないような気すらした。それはまるで、「嘘」という項のかかった、括弧のかけ算のようなものだった。

 嘘(愛・愛・愛・愛)=4嘘愛。

 風呂上がり、鏡に映った自分の姿を見て、彼女は毎晩のように絶望する。自分はこんなにもまだ満たされない。結婚生活とは、あの日教会で身にまとった純白のウェディング・ドレスのように、染みひとつないまっ白い清らかなものであったはず。なのに、そんなものはたった三年で消え失せてしまい、今となっては、結婚というものにあんなに無垢な憧れを寄せていた自分を、馬鹿馬鹿しくすら思えてくる。その生活自体が彼女には苦痛──鋭い痛み──だったし、また、結婚という現実を受け止められない自分もまた、苦痛──鈍痛──だった。かつては愛の巣だったはずの家は、今は鳥かごででもあるかのように思えてしかたがない。昔は、ルーパスが夜勤になると、朝方まで眠い目をこすりながら起きていた。だが今は、朝方にルーパスが階段を上ってくる音で目を覚まされ、眠い目をこすりながら「もうちょっと静かに入って来られないの?」と文句を言うようになった。
 だが、ふたりともお互いに思いやりを持っていなかったわけではない。その思いやりを行動に移す前に、日々のストレスややるせなさが勝ってしまうのだ。
 ふたりはここ数年、よく言い争いをしてきた。お互い本当は悪くないのを胸の底で知っていた彼らは、無意識に、「どうしようもない部分を責める」という最悪の道を選んでいた。とにかく、誰かに当たりたかったのだ。アイーダは主に、ルーパスの仕事が時間的に不安定であることや、収入が少ないことや、隣の奥さんが楽しそうに暮らしていることなどを引き合いに出して、ルーパスを責めた。そしてルーパスは、アイーダが彼の役割を理解していないことで、彼女を責めた。
「僕はお金を稼ぐために、昼も夜もごっちゃにして働いてるんだよ、アイーダ」彼はいつでも、興奮して彼を責めようとするアイーダの手を取りながらこう言った。「僕だって、好きに生きてるわけじゃない。君と同じなんだよ。だから、せめて君は理解してくれなくちゃ」
 だが、そんな言い争いの日々も、ここ十ヶ月は影を潜めている。
「男の子だったらデイビッド、女の子だったらビクトリアと名付けよう」
 ゆったりとソファに身をゆだねるように座るアイーダの、大きな腹や頭をなでながら、ルーパスは毎晩のようにそう言う。

 アイーダが妊娠し、やがてすこしずつ母親の体になってくるにつれて、ふたりは、それまでに味わったことのないような気持ちになった。初めは、これまでどんなに望んでもできなかった子供が産まれることへの興奮。そして、その興奮が落ち着いてからは、不安と期待の入り交じった落ち着かなさを感じながら、「自分の本当の味方は、この人なのだ」と、自分たちが夫婦というひとつの生き物であることに歓びを覚えるようになった。
 初めのうち、アイーダはひどいつわりが続く毎日に不安になり、ルーパスに当たり散らすこともあった。だが、ルーパスは、当たられれば当たられるほど「僕はこの女の夫なのだ」という自信が湧いた。アイーダは安心して当たりながら、結婚してから初めて夫から感じる男らしさを心の底から誇らしく思い、ずいぶん久しぶりに全身で安心した。ルーパスは、「ああ、僕は彼女の言うように、彼女を大事にしてこなかったのかもしれない」と胸の中で認めた。アイーダは「ああ、この人はわたしの生活を守るために仕事に出かけ、わたしを守るために帰ってくるんだわ」と、すんなりと認めた。つわりが終わるころには、もう、彼女は夫に当たることをやめ、素直に不安を打ち明けるようになっていた。ルーパスはそんな彼女の頭をなでながら「男の子だったらデイビッド、女の子だったらビクトリアと名付けよう」と、大きな腹や頭をなでるのだった。アイーダは幸せそうに瞳を閉じると、頭をなでる彼の手の邪魔にならないよう、そっとうなずいてみせた。

 だが、生まれてきた男の赤ん坊は、デイビッドともビクトリアとも名付けられなかった。それは、赤ん坊の額に大きな釘が一本刺さっていたからだ。ルーパスの想い描いてきたデイビッドもしくはビクトリアの額には、そんなものは刺さっていなかったのだ。医者の取り上げたその赤ん坊を見ると、出産で弱っていたアイーダは「ああ……」とうめくように言ったまま気を失ってしまった。ルーパスは、これはいったいどういうことかと医者に意見を求めたが、医者も、なにが起こったのか、いったいなぜ釘が刺さっているのか、どうしても分からなかった。
 赤ん坊のベッドには、なぜか名札がついていなかった。確かに、釘の刺さった赤ん坊など他にいるわけもなく、一目で彼だと分かったのだが、名札のケースが空になっているそのベッドを見るたびに、夫婦は悲しくてたまらない気持ちになった。その夜、仕事を終えた担当看護婦のアニーは白衣からジーンズに履き替えながら、ポケットの中に「アイーダ・ハート」と書かれた札を見つけ、そういえば名札をつけるように頼まれていたのを思い出したが、翌日にはすっかり忘れてしまっていた。
 他の病室にいる両親たちは、みんな幸せそうに生まれたばかりの我が子を胸に抱き、絵に描いたような美しい夫婦に見える。だが自分たちは、「いったいなぜこんなことになってしまったのだろう」と、胸を痛めることしかできずにいる。そのコントラストは否応なくふたりにのしかかり、余計に惨めな気持ちにさせた。

 退院して初めての夜、ようやく戻ってきた我が家のリビング・ルームで、デイビッドもしくはビクトリアのためのベッドに横たわる赤ん坊をうつろな瞳で眺めながら、つぶやくようにルーパスが言った。
「この子の名前は、ネイル(釘)にしよう……」
 アイーダは、その夫の横顔を上目づかいで見つめながら、申し訳なさそうな表情を浮かべ、無言のまま身じろぎひとつしなかった。
 こうして、ネイル・ハートは生まれた。
 釘が刺さっているのにも、気づかないままで。



二、

 四歳になっても、ネイル・ハートは幼稚園に入れてもらえない。それどころか、ほとんど外に出してすらもらえないのだ。たまに出ることがあっても妙な形をした帽子を深々とかぶらされ、釘が見えないようにされる。それはそれでひどく滑稽に見えて、道行く人たちはちらりと視線をよこしたりしたものだったのだが、両親にしてみれば、釘を見られるよりは、ずいぶん気が楽だ。
「ねえ、なんでぼくには釘が刺さっているの?」ネイル・ハートは両親にこう訊ねる。
「ほら見て」と、アイーダは自分の耳たぶを指さす。「金の輪っかがついてるでしょう? これと似たようなものなのよ」
「じゃあ、なんでお外でぼくは帽子をかぶるのに、母さんはかぶらないの?」
「それは、あなたは帽子がよく似合うからよ」アイーダは、ネイル・ハートの頭をなでる。「母さん、帽子をかぶっているあなたを連れて歩くのが、とても嬉しいのよ。だって、みんなあなたのこと見るんだもの」
 ネイル・ハートは黙ったままうんうんとうなずきながら話を聞き終えると、「さあ、それじゃあ自分のお部屋で遊んでらっしゃいね」というアイーダの言葉を合図に階段を駆け上がっていく。小さな足音が階段の上でやみ、子供部屋のドアが閉まる音がすると、アイーダはソファにどっと身を沈めて、天井を仰ぎ、両目を右手で覆った。
「ああ、あたしたち、いったいどうすればいいのかしら」彼女は胸の中で言う。
 とにかく、いつまでもネイル・ハートを隠しておくことはできないのだ。彼のことを心配し、行く末を案じれば案じるほど、自分ひとりが家に残って彼の世話をしているのが、なんとも不公平に思えてきた。アイーダはルーパスの留守を苦々しく思うようになり、また、以前と同じような言い争いがはじまった。
「いちどは君だって分かってくれたじゃないか」ルーパスが一生懸命に、アイーダをたしなめようとする。だが、アイーダは「あの子のこと、どうすればいいのか分からないのよ、あたし、分からないのよ!」と、ときには涙を流しながら叫ぶ。リビングの空気が震え、壁が震え、天井が震える。その天井の上では、臆病な目をしたネイル・ハートが心配そうに体を丸くして、びくびくしながらベッドで毛布をかぶっている。自分が身動きひとつすれば世界が壊れてしまうかのような、そんな気持ちで。



三、

 六歳になったネイル・ハートは、ついに学校に行かされることになった。いかんせん義務教育制度に逆らうわけにもいかず、両親は悩みに悩んだ末、小学校への入学手続きを済ませた。はたして、六年間も額の釘を隠しとおせるものだろうか。考えれば考えるほど無理な相談に思えたが、とにかくやるしかない。アイーダは、「どうせならば、せめてかわいい帽子を。先生だって脱がせたくなくなるような帽子を」と、息子のために、ふわふわしたぼんぼんのついた、青い帽子を編んだ。
 一方、ネイル・ハートはといえば、そんな両親たちの不安をよそに、嬉々として初めての通学路を歩みだした。「行ってきます!」と手を振り、振り向きもせずに家の前の道路を遠ざかってゆくネイル・ハートの軽やかな足取りが遠ざかるにつれて、両親たちの気持ちは、どんどん重くなった。
 やがて、ネイル・ハートの姿がすっかり見えなくなるとふたりは家に戻り、アイーダは朝食の食器を片づけはじめ、ルーパスは夜勤に備えてベッドへともぐりこんだ。
 そのころネイル・ハートは、初めて合流した他の新入生たちに、帽子についたぼんぼんを「女の帽子だ!」と馬鹿にされ、帽子をひったくられているところだった。
「おい、こいつ、釘刺さってるぞ!」帽子を取り上げた男の子が大声で叫ぶ。
 その声に、近くを歩いていた小学生たちが、わんさと集まってくる。みんなでネイル・ハートを取り巻き、「釘だ、釘だ」と騒ぎ立てる。
「お前、なんて名前だよ? なんで釘が刺さってるんだ?」他の男の子が、からかうように言う。
「生まれたときからずっと」と、半泣きのネイル・ハートが答える。「名前はネイル……、ネイル・ハート……」
「おい、名前も釘(ネイル)かよ! こいつは傑作だ!」誰かがそう叫ぶのが聞こえ、続いてあたりは大爆笑の渦に包まれる。
「帽子を返してよ、返してよ!」ネイル・ハートは泣きじゃくりながら帽子を追いかけるが、青いぼんぼんは次から次へと小学生たちの手を渡り、ついには、どこに行ってしまったのか分からなくなった。
「お前、痛くないのかよ?」まだ笑いの収まらない小学生のひとりが、ネイル・ハートの釘を指先でおそるおそるつつく。「うわ、ほんとに刺さってるよ。絶対痛いよ、これ!」
 だが、ネイル・ハートは痛くない。生まれたときから、その痛みとともに生まれてきた彼には、それが痛いとは思えない。
「痛くないよ……」ネイル・ハートは答えた。
「嘘つけ。釘が刺さってるのに、なんで痛くないんだよ!」さきほどの小学生が触ったのを見て安心したのか、他の小学生たちも、我先にと釘を触りにくる。
「だって、痛くないんだよ!」ネイル・ハートは大声で泣き出した。
 小学生たちは、泣き出したネイル・ハートを見て驚き、口々に責任をなすりつけ合いながら、三々五々、その場を離れていった。あとに残されたのは、ネイル・ハートと、踏みつけられてすっかりボロボロになった、青いぼんぼんの帽子だけだった。ネイル・ハートは泣きながら帽子を拾い上げるとかぶり直し、とぼとぼと通学路を歩き出す。靴が土を踏む音が、乾いた空気にざくざくと響いた。



四、

 とはいえ、ネイル・ハートの学校生活は、客観的に見て、それほど悲惨なものではなかった。他の生徒たちは彼の額の釘を気味悪がっていたわけではなく、ただ単に、物珍しがっていただけだったからだ。最初の一週間ほどは、学校じゅうの生徒たちが見に来たり、触りに来たりしていたが、その後はといえば、すこしずつ話題にすら上らなくなっていった。これが、彼に起きた本当のことだった。
 だが当のネイル・ハートにとっての事実は、またすこし──というかだいぶ──ちがった。初めての日にわいわいたかられた記憶と、最初の一週間で見せ物になってしまったという思いのせいで、すっかり自分が他の生徒たちとはちがい、珍しがられ、気味悪がられるような存在なのだと思いこんでしまったのだった。
「ねえ、その釘、本当に痛くないの?」
 最初の一週間で何度となく訊ねられたこの質問は、半年が経っても、ネイル・ハートの胸の中から消え去ってはくれなかった。
 みんな、痛くないって分かってくれないんだ──。
 彼は学校に行くときや、学校にいるときや、学校から帰るときには、そのことばかり考えていた。そして学校から帰ってから夜寝るまでの間は、翌日に学校に行くことを思い、やはり同じ気持ちになった。彼はだんだんふさぎがちになり、表情も暗くなっていった。やがて、拒食症とまではいかないまでも、食事の量もだいぶ減った。ルーパスとアイーダはその息子の様子を心の底から心配していたが、息子の悩みの種が何であるかが火を見るよりも明らかだったため、敢えてその話題には触れないようにしていた。
 だが、ネイル・ハートにしてみれば、両親が触れてくれないこともまた、つらかった。あたかも両親までもが自分の釘のことを気味悪がり、なかったことにしたがってでもいるかのように、彼には感じられていた。誰にも、釘のことなど話せはしない。誰にも分かりはしない。彼は、自分の釘のことが、恥ずかしくて、嫌で、憎くてたまらなくなった。
 その思いが我慢の限界まで近づくと、彼はこっそりルーパスの道具箱から釘抜きを持ち出した。そして自分の部屋で鏡の前に立つと、「今日こそ抜いてやるぞ」と、自分の釘に釘抜きを当てた。だが、いざすこしでも力を入れてみると、頭蓋骨が引っ張られるのを感じながら、彼はいつでもこう思う。
「でも、この釘を抜いたら、ぼくはどうなってしまうんだろう……」
 ネイル・ハートは釘抜きをそっとはずすと、鏡に映った自分の顔を、悲しそうな、不安そうな目で眺めた。どこから見ても、おかしくなどない。ネイル・ハートは、生まれたときからその顔で生まれてきたのだから。



五、

 ネイル・ハートと同じ学年に、カナリヤという女の子がいた。カナリヤはネイル・ハートよりすこし背が高く、きれいに手入れをした金髪を、いつもきらきらさせながら背筋を伸ばして歩いた。オレンジのシャツと深いブルーのベルボトムのジーンズを組み合わせるのが彼女のお気に入りで、それを身に着けているときの彼女は、全校集会でも、どこにいるかすぐに分かった。飛び抜けて可愛いというほどではなかったが、個性的なその顔は、むしろ魅力的だったと言っていい。実際、入学して以来彼女に惹かれている男子生徒は何人かいたし、実を言うと、ネイル・ハートもそのうちのひとりだった。
 カナリヤは、誰とも付き合わない。そういう噂が流れはじめたのは、夏休みのすこし前からだった。その噂を聞くともなしに耳にすると、ネイル・ハートの胸はきりきりと痛んだ。授業中、窓際の自分の席から窓の外を見る振りをしながら、窓ガラスに映るカナリヤの姿をこっそりと見ながら、彼は胸の中で言う。
「ましてや、釘が刺さっているぼくとなんて遊んでくれるわけないじゃないか」
 先生が、「ネイル君、ネイル・ハート君!」と大声で読んだ。驚いたネイル・ハートがはっと顔を上げると、先生は眉をひそめながら「どうかしましたか?」と訊ねてきた。気づけばネイル・ハートは、知らず知らずのうちに自分の額の釘を両手で押さえていたのだった。目の端に、自分のほうを振り向いているカナリヤの姿が見えた。
「いいえ、なんでもありません……」ネイル・ハートはつぶやくようにそう答えると、両手を釘の上からどかし、今度は本当に窓の外を眺めた。
 校庭を、砂埃を巻き上げながら風が吹きすぎていく。校舎とは反対側の道路沿いに植えられた桜並木が、砂埃と同じ方向に揺れるのが見える。空はどこまでも深い青をしていて、真上にのぼればのぼるほど、その青さはますます濃く、深くなっていた。その空を突っ切るように、まっしろい飛行機雲を引きながら、はるか上空を飛行機が音もなく飛んでいた。ネイル・ハートは、自分もあんなふうに空さえ飛べればと思った。そうすればみんな、釘のことなんて忘れてくれるにちがいないのに。

 ある日、とぼとぼと学校からひとりで帰るネイル・ハートを、後ろから誰かが呼び止めた。
「ねえ、待ってよ、ネイル・ハート君!」金属質な女の子の声だ。
 その声に振り向き、ネイル・ハートは思わず息を飲んだ。彼に追いつこうと走ってくるのは、カナリヤだったのだ。
「ネイル・ハート君も、こっちの方角なの?」ようやく追いつくと、カナリヤはまだ弾んでいる息を整えながら言った。
「うん」ネイル・ハートは彼女のほうを見ずに、さり気なくうなずいた。
「あたしんちも、こっちなんだ」カナリヤが、深呼吸をして続ける。「なんで今まで気づかなかったかなあ。そしたら、一緒に帰れたのにね。そう思わない?」
「うん、そうだね」ネイル・ハートはまたひとつうなずくと、埃が目に入った振りをして、帽子を深くかぶりなおした。
「走ったから疲れちゃった」カナリヤは、歩きながらぐっと伸びをした。すると、鮮やかなオレンジ色のTシャツが広がるせいで、彼女までが大きくなったように見えた。「ねえ、ちょっと座っていこうよ。このあと、なにもないんでしょう?」
 カナリヤはそう言うと、ちょうど通りかかっていたママタリ公園の、暗い色をした木のベンチを指さした。芝生の上に置かれ、さんさんと降り注ぐ日光を浴びたそのベンチは、手のひらを置いたときの温かさをネイル・ハートに連想させた。広々とした公園を目の前にして、そのベンチにカナリヤと座ったら、さぞかしいい気持ちにちがいないと、ネイル・ハートは胸をときめかせた。 「じゃあそうしよう」ネイル・ハートはちらりとカナリヤの顔を見た。
「うん」カナリヤが嬉しそうにうなずき、にっこり笑った。本当に、嬉しそうな笑顔だった。
 ネイル・ハートがちょこんとベンチに腰かけると、その隣にカナリヤが座った。カナリヤはどさりとバックパックを芝生の上に放り出すと、またひとつ、大きく伸びをした。
「気持ちいい! こういう日に寄り道しないなんて嘘よね!」カナリヤはそう言いながら、同意を求めるかのように、ネイル・ハートの顔を覗き込んだ。
 だがネイル・ハートは、なんと答えていいのか分からなかった。胸の中では、まさにカナリアの言うとおりだとしか思えなかったのだが、それを正直に言葉にしていいのか悪いのか、まったく判断がつかなかったのだ。入学して以来、自分の言いたいことを誰かに言えず、彼はずっと自分を納得させ続けてきた。そうしているうちに、すっかり気持ちを吐き出すことが苦手になってしまっていた。
「あー」ネイル・ハートは代わりにそう言うと、空を見上げて黙り込んだ。
 だが、カナリヤはそんなネイル・ハートの気持ちに気づくはずもなかった。彼女が彼と同じように空を見上げると、肩から前にかかっていた髪の毛が背中のほうに滑り落ち、温かく公園全体を包み込んでいる陽光の中で、跳ねるように踊りながら光を撒きちらした。ネイル・ハートはしばらく空を見上げると、軽く目を閉じた。そうするとまぶたが赤く透けて見えるのが、彼は昔から好きだった。カナリヤが座っている左側の二の腕がほんのりと温かく感じられ、彼の心臓が大きく脈打った。隣に大好きな女の子がいて、彼女が自分と同じように黙ったまま、自分と同じように空を見上げ、自分と同じように気持ちよさを感じてくれている。そう思うと、これまでのつらい思いがぜんぶ報われたような気になり、体じゅうに流れていた緊張の血液が、ぜんぶ蒸発してしまったようだった。思わずごくりと唾を飲み込んでから、首が伸びているせいでよけいにその様子が目立ってしまったのが、ものすごく恥ずかしくなった。だが幸いにもカナリヤは、気づいていないようだった。ネイル・ハートは心の底からほっとして、ため息をついた。その横でカナリヤも、気持ちよさそうにため息をついた。
 話したいことなど、なにも見つからなかった。ネイル・ハートの頭の中には、「なにかしゃべらなくちゃ」という気持ちがぐるぐると、洗濯機の中で回っているお気に入りの靴下みたいに回り続けていた。「なにかしゃべらなくちゃ」と思えば思うほど、「なにかしゃべらなくちゃ」という以外のことは、なにも考えられなくなった。そうして「なにかしゃべらなくちゃ」を頭の中で繰り返しながら、彼女が話しかけてきてくれるのを、彼は待ち続けた。
「ねえ、訊いてもいい?」しばらくしてカナリヤがそう話しかけてくると、ネイル・ハートの頭の中で洗濯機の電源がぶちりと切れ、靴下の模様や縫い目のひとつひとつまでもがくっきり見えるような気になった。
「うん、いいよ」と、ネイル・ハートは答えた。いったいどんなことを訊いてもらえるのかと、わくわくした。
「ネイル・ハート君って、釘が刺さってるじゃない?」カナリヤは、無邪気な笑顔でそう訊いてきた。ネイル・ハートの胸がきゅっと痛み、とたんに、学校にいるときのような、いつもの気持ちに戻った。カナリヤは、そんなことは知らない無邪気な笑顔で続ける。「それ、いつから刺さってるの?」
「生まれたときから……」ネイル・ハートは、ぼそぼそと答えながら、ベンチの下で足をぶらぶらさせた。
「それ、痛くないの?」
「痛くないよ」ネイル・ハートは、宙に視線を漂わせながら言った。「ねえ、そろそろ帰ろうよ」
「えー、もう帰るの?」カナリヤは、残念そうな顔で言った。「じゃあ、これあたしの携帯。教えてあげるから、いつでも電話して」

 その夜、ネイル・ハートは食事も喉を通らない思いだった。「それ、痛くないの?」というカナリヤの声が、どうしても忘れられなかった。そして、あの無邪気な笑顔。彼女もやはり、自分のことを分かってくれない。それどころか、みんなと同じように好奇の目で見ているに過ぎないのだ。そう思うと、自分が惨めでたまらなくなった。左の二の腕のあたりがかゆくて、彼はそこだけを何度も掻いたり、ぴしゃりと平手で叩いたりした。だが、やりきれない気持ちだけは、どうにも消えてくれなかった。同じものを見て、気持ちよくなり、理解してもらえたと思ったのに。ネイル・ハートは悔しくて悔しくて、いてもたってもいられなくなった。普通ならば、「明日を待って、もう関わらなければそれで済むさ」と思えたが、カナリヤの笑顔や髪の毛や歩く姿を思い浮かべると、どうしてもそうは割り切れなかった。ネイル・ハートはこっそりと階段を降りると、彼女の携帯電話に電話をかけた。 「こんばんは」ネイル・ハートが言った。
「もしかして、ネイル・ハート君? もうかけてきてくれたの?」
 彼にはそれが、一瞬皮肉に聞こえた。電話番号を貰ってすぐかけてしまったことが恥ずかしくなり、自分のことを最低だとしか思えなくなった。ネイル・ハートは首をぶるぶると横に振りながら、いつでも電話して、と言った彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
「今から、ママタリ公園に来られないかな」彼はうかがうような声で言った。
「今から? ちょっと待って」彼女が言い、ドアがきしむような音がして、次に、ドアがそっと閉まる音がした。「だいじょうぶ。すぐ行くから、すぐ来てね」カナリヤがひそひそ声で言った。

 夜のママタリ公園は、昼間とはまったくちがって見えた。ベンチは冷たく冷えていて、ほとんどまっ暗だった。昼間は濃い緑に見えた芝生や遠くの木々はクレヨンで塗りつぶしたようにまっ黒く見えて、じっと見ていると、近くにあるのか遠くにあるのかも分からなくなってしまいそうだった。ネイル・ハートは大げさにまばたきをすると、隣においたバックパックを触って確かめた。見上げれば、空にはちらちらと、数え切れないほどの星がまたたいている。まるで、夜の支配者になったような気持ちで、気持ちよかった。いつも通っているはずの通学路なのに、まるで、ぜんぜんちがう町のちがう道を見ているかのような気分だった。
 しばらく待っていると、急ぎ足の足音が近づいてくるのが聞こえた。ネイル・ハートは息を殺して、足音のするほうへと目をこらした。月明かりにぼんやりと照らされながら、黒い影がネイル・ハートのほうに向かってくる。そして、ベンチの近くまでくると急ぎ足をやめた。
「ネイル・ハート君?」カナリヤの声がした。「いるの?」
「ここだよ」ネイル・ハートは、囁くように言った。
 その声に、安堵したようなため息を、カナリヤがついた。彼女は近寄ってくると、昼間と同じように、ネイル・ハートの隣に座った。
「やっぱ昼間より寒いね」カナリヤはぎゅっと脇をしめて両手を組むと、そこに唇をくっつけるようにした。
「大丈夫?」ネイル・ハートはそっと言った。「こんな時間に、ごめんね」
「ううん、いいよ。大丈夫。ありがとう」カナリヤは言うと、わずかにネイル・ハートの肩に寄りかかるようにした。ネイル・ハートは、それが偶然なのかわざとなのか分からずどぎまぎしたが、きっとわざとじゃないはずだと思うことにした。それを確かめようと、そっと首を動かして彼女のほうを見ると、彼女もネイル・ハートのほうを見つめていた。目が合い、カナリヤが、今度は明らかにわざと、体を寄せてきた。「それ、痛くないの?」という昼間の彼女の声が、ネイル・ハートの頭の中に蘇ってきて、彼はなんだか恐ろしいような気持ちになった。
「ねえ」カナリヤが、吐息で言う。「なんで呼び出してくれたの?」
 ネイル・ハートは答えなかった。答えようもなかった。まだ準備もしないうちに号砲をならされた短距離選手のような気持ちだった。彼は黙り込み、じっとこちらを向いているカナリヤの目を覗き込んだまま、身動きがとれなくなった。どこからか、虫の鳴く声が聞こえていて、それだけが、時間の流れている印だった。ネイル・ハートの体が緊張のあまり震えると、カナリヤが目を閉じて、顔を寄せてきた。彼はもう、半ばパニックのような状態だった。彼女のことは好きだった、彼のことを理解してくれるかどうか分かる前に、いきなりこんなことになるだなんて。「分かって欲しい」という気持ちだけが暴走しはじめ、ネイル・ハートはどんどん不安になっていった。彼はバックパックから中身を引っぱり出すと、彼女に正面から向かい合った。そして、カナリヤの額に、釘を一本打ち付けた。カナリヤの体がベンチの上から崩れ落ち、柔らかい芝生の上に、静かな音を立てて落ちた。息を弾ませながらネイル・ハートは、目だけを動かして彼女のほうを見た。彼女はぴくりとも動かないまま、ぐにゃりと体を不自然に曲げて、夜の底に横たわっていた。
 遠くから虫の鳴く声が聞こえている。ネイル・ハートはバックパックを背負うと、一目散に家を目指して走り出した。
「痛くないって知って欲しいだけだったのに」
 胸の中で彼は何度もそう叫んだ。叫べば叫ぶほど、涙があふれて止まらなくなった。



六、

 翌日からネイル・ハートは、学校に姿を見せなくなった。両親は、自分の部屋に閉じこもってしまった我が子のことを心配していたが、「きっとあの釘のことでなにかあったのにちがいない」と思うと、どう声をかけたものかすっかり分からなくなった。アイーダはただ気を揉みながらルーパスが仕事から帰ってくるのを待ち、夫が帰宅すると、ひとりで揉んでいた分の心配を怒りに変えて八つ当たりした。ルーパスはなんとか彼女をなだめようとしたが、彼が落ち着いていれば落ち着いているほど、アイーダはそれが気にくわなかった。彼女はまるで夫を挑発するかのように怒鳴り散らし、夫を平手で打った。
「もうあたし、どうにかなっちゃいそうよ!」
 ネイル・ハートは自分の部屋で、カーテンを引いた窓際に腰かけながら、それを聞いていた。自分のせいで、なにもかもおかしくなってしまった。その後、カナリヤはどうなってしまったのだろう。もう、学校になど行かせてもらえるはずもない。家にいても、両親の仲が悪くなるだけだ。そう思うと胸の奥からなにかどうしようもない感情があふれ出てきて、頭がチカチカした。ネイル・ハートはカーテンをぎゅっとつかむと、声を押し殺して泣いた。外に世界が広がっているのだと思うと、怖くてたまらなくなった。誰もが皆、自分のことを指さして責めているような気持ち。自分とすれちがう人たちが、みんな振り向いて陰口を叩いているような気持ち。もう、誰にも会いたくない。涙にまみれた自分の顔を乱暴に手のひらでこすった。
「誰もいないところに行ってしまおう……」
 ネイル・ハートは胸の中で言った。そして、その夜のうちに準備を整えると、町じゅうがすっかり寝静まるのを待ってからこっそり窓から抜け出し、壁に這わせてある配水管をつたって庭に降りた。足が地面に着き、ネイル・ハートは、誰にも気づかれていないことを確かめるために、息を殺して聞き耳を立てた。どこかから虫の声が聞こえているほかには、なにも聞こえなかった。彼は足音を忍ばせながら、門から歩き出た。門をくぐり抜けてから、自分の家を振り向いてみた。夜の暗がりの中ですっかり電気の消えた家は、なんだか自分の家のようには見えなかった。さっきまでいた、自分の部屋の窓を見上げてみる。その中には、これまでずっと使ってきたおもちゃや道具が、さっきまでと同じままに置いてあるはずだった。それを思うと胸が切なくてたまらなくなった。誰にも見つかっていないうちに引き返してしまいたいような気持ちが湧き、涙が目に浮かんだ。ネイル・ハートは目をぎゅっといちど閉じると開き、家を背にして歩き出した。「もう、戻ってこないのだ」と、胸の中で繰り返しながら。
 まるで夜空に突き刺さるようにして町はずれに立っている教会の塔を見上げながら通り過ぎ、ちょろちょろと音を立てながら流れる川の上を渡る。町の中心部を離れてしまうと、もうほとんど誰かの目に留まるような心配もなくなってきた。元々、彼の家は町はずれ近くにあったので、わざわざ、嫌な思い出の残っている場所を通らずに町から出られるのは、ありがたかった。
 ネイル・ハートは、町を一望できる丘の上まで歩くとそこで一度振り向き、町を見下ろした。ふたつかみっつ、灯りのついた窓が見えた。自分の家のあたりは、暗すぎてよく見えなかった。そこで眠っているにちがいないルーパスとアイーダのことを思うと、悲しい気持ちになった。だが、こうしてどんどん距離が離れてしまうと、「町を出て行こう」という決意も固まり、ついさっき窓の下で感じたような「やっぱり戻ろう」という気持ちは感じなかった。ただ、悲しかった。ネイル・ハートは思い切って町に背を向けると、丘の上を歩きはじめた。緩く起伏する丘の上をとぼとぼと歩く彼の頭上には、まん丸い月が淋しげな光を放ちながら浮かんでおり、その周りには、彼にはそ知らぬ顔をした星たちが、ちらちらと瞬いていた。
 彼は朝方まで歩き続けた。途中から、眠気と空腹感のせいでどうにかなってしまいそうに疲れていたが、その疲れや脚の痛みのおかげで、すこし気持ちが楽になるような気がした。途中から道は、それまでの平地から、森の中へと入っていた。ネイル・ハートはそのまま森を突っ切るつもりだったのだが、どこでどう道をまちがえたのか、いつの間にか細い獣道のようなところに入り込み、やがて、その道すらなくなった。戻って道を探してみようかとも思ったが、なんだか町のほうを向くのが怖くなり、彼は立ちふさがる枝や草を掻き分けながら進んでいった。
 ひとしきり歩くと、見たこともないような大木が姿を現した。まるで森の主のような堂々としたその姿。幹はあちこちに枝分かれしながら、まるで空全体を覆い尽くすかのように、ネイル・ハートの頭上を覆い隠している。下からでは、明けはじめているはずの空も見えなかった。幹は大きく曲がりくねり、あちこちで枝分かれを繰り返しながら広がっていた。何本にも枝分かれした幹が複雑に絡み合っているあたりに、寝転がっても大丈夫そうな場所があるのを、ネイル・ハートは見つけた。そこまで登ってみるとまさに隠れ家にはうってつけであるように、彼には思えた。ちょうど左右を細かい枝や幹が何本もかこっているおかげで、多少の寝返りを打っても、地面に落ちる心配はなさそうだった。彼は家から持ってきたビニールシートをバックパックから取り出すと敷き、その上に横になった。ひどい眠気がこみ上げてきて、彼は、吸い込まれるように眠りの底へと落ちていった。意識がすっかり眠りの海に飲み込まれる瞬間、ネイル・ハートは「ここで眠ってしまったら、目覚めたときにはもう、ぼくがいないことに父さんも母さんも気づいているんだ」とふと気づき、体を丸めた。



七、

 翌朝、目を覚ますと体の節々がひどく痛くなっていた。固い木の幹の上に直接寝たようなものなのだから、無理もなかった。ネイル・ハートはまずはその問題を解決してしまおうと思い、枯葉や枯れ草を集めはじめた。両腕に抱えられるだけ集めてはそれを木の上へと運び、ビニールシートの下に敷き詰めた。次に、木のつるを何本か切ってきて、自分のベッドが隠れてしまうように、枝を結びつけてすっぽりとかこってしまった。
 辺りを歩き回ってみると、彼が見つけた場所は、隠れ家としては本当に最適であるように思えた。ちょうどいい広さに開けていて、おいしそうな実をならした果樹が何本か立っていた。彼はそのうちのひとつをもぎ取ると、恐る恐る口に入れてみた。酸っぱいような甘いような味が、彼は一口で気に入った。
 地面に転がっている古い木の上に腰かけてぼんやりと空を見上げていると、本当に気持ちがよかった。誰に見とがめられることもなければ、誰かに話しかける必要もない。人から変な目で見られることもなく、相手の返事を待ちながらびくつくこともなく、相手が本当は自分をどう思っているのかに怯え震えることもなかった。彼は、町で過ごしたたった六年間で、すっかり人のことが苦手になってしまっていた。こうして誰もいない青空の下で好きなように過ごしていると、それが本当によく分かった。
 とはいえ、淋しくないわけではなかった。ときどき、フクロウの声を聞きながら寝床で丸くなっているときに、胸の奥がどうしようもなく締め付けられるように淋しくなった。
「町にいるときも、どうせひとりで寝ていたのに。なんで今はあのときよりも淋しいんだろう……」ネイル・ハートは、胸の前で手を組みながら考えてみた。
 考えていると、両親や、クラスメイトたちや、カナリヤのことが思い出されてしかたなかった。ママタリ公園でカナリヤと会ったとき、左側の二の腕がほんのりと温かく感じられことを思い出した。そうするとあのときと同じように心臓が大きく脈打った。地面に転がっていたカナリヤの死体。その目。彼が走り去ったあとも、あそこで転がっていたにちがいない、オレンジのTシャツを着た彼女の死体。それを思うと胸がひどく痛んで、ネイル・ハートは狭い寝床の上で幹や自分の体を掻きむしった。たぶん、そばに誰もいないのが淋しいのではなく、誰かを失ったことや、誰かが赦してくれないことが淋しいのかもしれない。木に鼻をくっつけて匂いを嗅ぎながら、ネイル・ハートは胸の中で言った。どうすればいいのか、彼にはもう分からなかった。ただ、これ以上つらい思いをしたくはなかったから、町には絶対に戻らないようにしようと思っただけだった。今の気持ちのままなら、なんとか生きていける。でも、それ以上となると、考えたくもなかった。
 ときどき、彼はこっそりと森を出ると、町とは森を挟んで反対側のほうにある海岸へと散歩に出かけた。砂浜に腰かけて沖を眺めていれば、どれだけ時間が経っても気にならなかったし、波の音はほどよく静かで、たまにすこしうるさいときでも、気にさわるようなうるささではなかった。ネイル・ハートは波の音に合わせるように、学校で教わった歌を口ずさんだ。

 大きい男が言うことにゃ
 世界はあまりに狭すぎて
 どこへゆく気もしやしない
 どこへゆく気もしやしない

 小さい男が言うことにゃ
 世界はあまりに広すぎて
 どこへゆく気もしやしない
 どこへゆく気もしなしない

 三拍子のその歌は、波の音に合わせるとすこしゆっくりになったが、そのくらいが、ネイル・ハートにはちょうどよく感じられた。唄っているネイル・ハートの周りには、動物たちがこっそり集まってきた。みんな物陰から、彼に見つからないように息をひそめ、楽しそうに唄う彼のことを見守りながら、体を揺らした。
 唄いながらネイル・ハートは、自分はいったいどっちなのだろうと考えた。どっちでもないような気もしたが、それでは、中くらいの男はどうするのだろう。いや、釘の刺さった男がいたら、彼はいったいどうするのだろう。彼にはやはり、どうしても分からなかった。
 風のある日、波がいつもより早く寄せるようになると、歌のペースも自然と上がった。そういうときにはいくらか明るい気分になって、大きい男も小さい男も、もしかしたらどこかへ行くことができるのではないかという気になった。彼は海岸沿いを歩きながら、きれいな色の貝殻を集めたり、おいしい海草が打ち上げられる秘密の場所まで足を伸ばしてみたりした。そして、物陰で用を足すとお尻を洗うために服を脱いで海に入り、泳ぎながら歌を繰り返し唄った。そして、すっかりくたくたに疲れ果てて砂浜に腰を降ろすと、水平線に沈んでゆく夕陽が海面に映りながらすこしずつ小さくなってゆくのを眺めながら過ごした。



八、

 森での生活が始まってしばらく経ったころ、ネイル・ハートは海からの帰り道で、傷ついた子猫を拾った。まっ白いその猫は、見れば後ろ脚に怪我をしているようだった。
「だいじょうぶ? 痛くないの?」ネイル・ハートはそっと声をかけると、猫を抱き上げて連れて帰った。
 荷物の中には、絆創膏や塗り薬もあった。家を出るときに、どうしても持って出なくてはいけないような気がして持ってきたものの、今まで使う機会のなかったものだ。他にも、定規や糊、はては空のカセットテープまで持ってきていたが、これらはまったく使い道はなかった。
 ネイル・ハートは子猫の脚にそっと薬を塗ってやると、その上からていねいに絆創膏を貼った。猫は薬が染みたのか体をこわばらせたが、しばらくするとネイル・ハートの顔を見上げて、短く、嬉しそうに鳴いた。彼はそれが嬉しくて、子猫の頭をやさしくなでると、猫に「アリス」という名前をつけた。それは彼が、『不思議の国のアリス』をお気に入りだからだった。もっとも、本の中では白いのはウサギだったし、そもそもアリスは白ウサギと出会う少女のほうだったのだが。
 アリスはどこにも行くところがないのか、ネイル・ハートが寝る時間になると木の上まで登ってきて、彼の横で丸くなった。ネイル・ハートはアリスの額に軽くキスをすると体をなでてやった。そうするとアリスは幸せそうに喉を鳴らし、腕を十字に組むようにしながら、顔を覆うのだった。
 アリスの脚の傷は、なかなかよくならなかった。いつまでも後ろ脚をひょこひょこと引きずるようにしながら歩いた。ネイル・ハートがご飯を探しにいくときも、海に遊びにいくときも、アリスはその後を嬉しそうについてきた。そして、ネイル・ハートが泳いでいる間は波打ち際で波と追いかけっこをし、砂浜に座っているときや、ご飯を食べているときには、その横で行儀よく座ってネイル・ハートの顔を見上げたり、体をすり寄せてきたりした。ネイル・ハートはなんだか彼女のことが他人とは思えず、ときどき強く抱きしめた。そうすると、ルーパスのことや、アイーダのことが思い出されて、なんだか胸が痛くなった。きっとふたりとも、ネイル・ハートがどこへ行ってしまったのかと、ずいぶん心配しているのかもしれなかった。そう思うと、町に帰りたいような気持ちにもなったが、ベッドに座りながら聞いたふたりの喧嘩や、学校でのことなどを思い出し、彼は首を力強く横に振った。
 今、自分はここでそれなりに楽しく、幸せに暮らしているのだから、それでいいじゃないか。彼は何度も、自分にそう言い聞かせた。夜の中に沈んだ海はどんな黒よりも黒く、沖に目を凝らしても、どこまでが海でどこまでが空なのか、分からなかった。ときどき遠くのほうから、近くを通り過ぎる船のくぐもった汽笛が聞こえてきた。ネイル・ハートはそれを聞きながら、どんな船が通っていて、どんな人たちが乗っているのかを想像した。そうすると、なんだかとても淋しくて淋しくてたまらない気持ちになった。彼の目から涙がこぼれた。ネイル・ハートは鼻をすすると、手の甲で涙を拭った。アリスが心配そうに、体をすり寄せながら細い声で鳴いた。

 アリスの傷は、どうもそれ以上よくならないらしかった。相変わらず脚を引きずってこそいたものの、特に苦しそうな様子も見せずに、ネイル・ハートと暮らしていた。彼は「だいじょうぶ? 痛くない?」と声をかけながら、よく脚をなでてやった。
 ある日、いつものように後ろ脚をなでてやっていると、アリスが怒って彼の手を引っ掻いた。ネイル・ハートは慌てて手を引っ込めると、「こら!」とアリスを叱った。彼が怒るのを初めて見たアリスは、しゅんとして小さくなってしまった。ネイル・ハートは「なにも引っ掻くことはないじゃないか」と、赤くみみず腫れになった自分の手に薬を塗りながらつぶやいた。
 そのとき、彼の胸の中で、まるで黒雲が晴れるかのような風が吹いた。
「もしかしたら、みんなこんなつもりでぼくに痛くないのか訊いていたのかもしれない」
 彼はそう声に出して言うと、アリスを振り向いた。アリスは相変わらず小さくなったままネイル・ハートの顔を見上げている。彼は「よしよし、もう大丈夫だよ。ごめんね」とアリスを抱き上げると、その頭を優しくなでた。
 その夜、枕元で丸くなるアリスを見ながら、ネイル・ハートはなかなか寝付けずにいた。昼間に考えたことが本当かどうか、ずっと考えていたのだ。彼の思うとおりのような気もするし、ただ単にからかわれているだけだったような気もする。だが、もし本当にただ心配してああいうふうに言ってくれていたのだとしたら、今こうして森で暮らしている理由は、なにもない。それどころか、人の優しさを無視して、自分勝手に人を憎んでいたことになってしまう。だとすればみんな、アリスに引っかかれたネイル・ハートがそうだったように、せっかく差し伸べた手を引っ掻かれたような悲しい気分で、今ごろ過ごしているのかもしれない。
 だが、どんなに考えても答など出そうになかった。気づけば、どこかで朝の早い鳥たちが挨拶を交わし合っているのが聞こえはじめていた。アリスを起こさないようにそっと木の枝をどかして空を見上げると、もうぼんやりと明るくなりはじめていた。
「いちど、こっそり町に戻ってみよう」ネイル・ハートは胸の中で言った。真実がどうあれ、森の中に閉じこもっていては、本当のことは分かりはしないのだ。
 その日、アリスが目を覚ますのを待ってネイル・ハートは荷物をまとめると、森を出ることにした。町を出てから、どれだけ時間が過ぎているのかも分からなかった。彼は、あの日通ってきた細い道に出ると、歩き出した。途中から道はどんどん広くなり、やがて森を出た。うしろから、ひょこひょことアリスがついてきた。ネイル・ハートはなんとか彼女を森に帰そうとしたが、どうしてもついてくるようだと諦めると、肩の上にかつぎ上げた。アリスは嬉しそうにひと声鳴くと、ネイル・ハートの釘に、顔をすり寄せた。
 久しぶりに歩く広い道は、楽しかった。よく晴れていて青空が見えたおかげで、歩いていると気持ちがよかった。ネイル・ハートは歌を唄いながら歩き、それに疲れると道ばたに座り込んでひと休みした。
 一歩一歩町に近づいているのだと思うと、楽しみな気もしたが、怖いような気もした。町を中心に恐怖心の水たまりが広がっていて、だんだんとその深さが増してゆくように感じられた。どんなに明るい気持ちを保とうとしても、胸の底からもくもくと滲み出てくるようなその恐怖心は、どうしても消えてくれなかった。だが、どこにも行かないのは大きな男や小さな男のすること。釘の刺さった男のことは、自分で確かめなければいけない。ネイル・ハートは両手を握りしめると、一歩、また一歩と町に向けて進んでいった。やがて、辺りが暗くなりはじめるころに、ネイル・ハートは町を見下ろす丘の上に立っていた。町にはぽつりぽつりと灯りがともりはじめている。彼はひとまず腰を降ろしてアリスを肩からおろすと、バックパックの中から帽子を取り出した。
 帽子を深々とかぶって釘が見えないようにすると、町に住んでいたころのことが、昨日のことみたいに思い出されて息が詰まるようだった。さっきまでは眼下に広がっているだけだった町の、路地の隅々までが細かく思い出され、かつてそこでなにがあり、どう感じたかが、否応なしに脳裏に浮かんできた。そして、あのママタリ公園で、カナリヤと会った夜のことも。ネイル・ハートは、座り込んで、やはり森へ引き返してしまおうかと考えた。アリスがその横から心配そうに彼の顔を見上げ、励ますように柔らかく澄んだ声で鳴いた。
「やっぱり、行かなくっちゃ」
 ネイル・ハートはアリスの頭をなでながら自分に言い聞かせるようにそう言うと、できるだけ町から見えないような道をたどりながら、丘を下っていった。
 あの日出ていった町はずれに着くころには、もうすっかり辺りは暗くなっていた。



九、

 町に入ったネイル・ハートは、きょろきょろと人目を避けながら、あの日と同じ道を逆に歩いた。ちょろちょろと音を立てながら流れる川の上を渡り、教会の塔を見上げながら通り過ぎ、自分の家を目指して。なにもかもがみな、なつかしかった。あの日歩いたときと同じ気持ちが地面から足をつたってのぼってくるようだった。そして、最後の角を曲がると、すぐ右手にネイル・ハートの家が見えた。出ていったあの日のまま、電気の消えた彼の部屋は、ずっとネイル・ハートを待ってでもいるかのように、ひっそりと静まり返っている。
 門の陰に隠れるようにしながら家を覗き込むと、リビングには灯りがついていた。中からかちゃかちゃと食器の音と、くぐもった話し声が聞こえてきている。ときおり、カーテンにルーパスとアイーダの影がうつるたびに、ネイル・ハートは門の陰に身を隠した。心臓は、まるで破裂してしまうような勢いで打っていた。今さら帰ったらどんなに怒られるだろうと思うと、泣き出したいような気持ちになった。もしかしたらふたりは、釘の刺さった変な子供がいなくなったせいで、気持ちよく暮らしているのかもしれないとすら思えた。彼はアリスを抱き上げると、頬をすり寄せた。アリスがひと声鳴き、静まり返った路地に、その声が響いた。ネイル・ハートはぎょっとして、あわてて彼女の口を手でふさいだ。どうやら誰も気づかなかったようだった。ネイル・ハートはほっと胸を撫で下ろしたが、おかげで、すこし勇気が出たような気がした。
「よし、今ので気づかれたことにしてしまえ」
 ネイル・ハートは思い切って門の中に脚を踏み入れると、玄関への道に敷き詰められた砂利を思い切り踏んだ。
 玄関のドアの前に立ち、呼び鈴に指をかけたところで、せっかく振り絞った彼の勇気は、またしぼみはじめた。ボタンへと伸ばした指を、進めることも引っ込めることもできなくなってしまった。こんな姿を誰かに見られたら、怪しがられてしまう。ネイル・ハートはどんどん焦りはじめた。押そうか。やめようか。喉の奥にすっぱいものが込み上げてきて、目の前がかすむようだった。
「えい」彼は小声で自分に言った。「どうせ押すんだ。今押しても、後で押しても、どうせ同じことさ」
 それを三度か四度繰り返してから、ようやく彼は、恐る恐る呼び鈴を押した。なんとも懐かしい聞き慣れた呼び鈴のベルの音が、ドアの向こうから聞こえた。それに続いて、「はーい」と返事をするアイーダの声と、玄関へと急ぎ足でやってくる足音。彼は、一生分の勇気を振り絞るような思いで、ドアの前に立ちつくした。ドアのノブが回り、アイーダが顔を覗かせた。彼女は、大人の顔の高さに目をやり、そこに誰もいないのを知ると、今度は子供の顔の高さを見た。
「あっ!」彼女が口に手をやり、半開きのドアがゆっくりと閉じはじめ、また彼女がドアを押さえた。「ネイル!」
 ネイル・ハートは、ただじっと立っていた。アイーダは、すっかり汚れ果てた息子の姿に、すっかり言葉を失っていた。逆光になっているせいでネイル・ハートから彼女の顔はよく見えなかったが、彼女の声、彼女の匂いにちがいなかった。ネイル・ハートはその気まずさを紛らわすために、久しぶりに嗅いだ自分の家の匂いが、まるでよその家の匂いみたいだと考えた。とにかく、早く次の言葉をアイーダに口にしてほしかった。
「ルーパス! ルーパス!」アイーダがリビングのほうを振り向き、夫を呼んだ。「ネイルよ、ネイルが帰ってきたのよ!」
「なんだって!」リビングのドアの向こうからルーパスの声が聞こえ、荒々しい足音とともに、ルーパスが出てきた。ルーパスは玄関の電気をつけると、そこに立っている我が子を見て「ネイル!」と名前を呼んだきり、絶句した。
 絶句したのは、ネイル・ハートもまた同じだった。それは、両親の額に、深々と大きな釘が刺さっていたからだった。
「ネイル、どこに行っていたの……」アイーダはドアから手を離してひざまずくと、我が子の体をきつく抱きしめた。ルーパスは、閉まりかけたドアとアイーダの間に体を割り込ませると、そのふたりを両腕で抱きしめた。
「お前、今までいったいどこにいたんだ。父さんも母さんも、心配したんだぞ」
 その言葉に、ネイル・ハートの目から涙があふれ出した。彼は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度もしゃくり上げるように繰り返しながら、アイーダの袖にこすりつけて涙を拭いた。両親も、その息子の嗚咽を聞いているだけで、涙が止まらなくなった。三人はひとしきり泣いてから、ドアを閉め、リビングに入った。その後ろから、アリスがひょこひょことついてきた。



十、

「いったい、今までどこにいたんだ」ルーパスが、所在なさげにうつむいているネイル・ハートに優しい声で言った。「怒らないから、話してくれないか?」
 アイーダは、何度も息子がそこにいるのを確かめるように目をこらしながらキッチンに行くと、淹れたばかりの温かいお茶を持ってきてくれた。かつてネイル・ハートのものだったカップはぴかぴかに磨かれていて、それを見ているだけで、ネイル・ハートは涙がまたあふれ出してしまいそうだった。やはりふたりとも、彼のことをずっと心配してくれていたのだ。ネイル・ハートは鼻をすすると、お茶を一口すすった。久しぶりの、アップル・ティの味。それまで果物や海草しか食べていなかったせいもあり、その甘い味が体の隅々まで広がっていくのが、目に見えるようにはっきりと感じられた。考えてみれば、温かいものを口に入れたのは、町を出てからこれが初めてだった。
 アップル・ティのおかげか、張りつめていた神経がゆっくりと解けはじめた。ネイル・ハートは、すこしずつ確かめるように町を出た日のことから話し出すと、森での生活についてや、アリスと出会ったことなどを話していった。話が進むにつれて、言葉がどんどん口をついて出てきた。ときどき涙が込み上げてしまい、そのたびにティッシュで目元を拭わなければならなかった。ルーパスは、ただじっと息子の顔を見ながらそれを聞いていた。アイーダは息子につられて目に涙を浮かべながら、彼の手をぎゅっと握りしめながら、話を聞いていた。ようやく最後まで話し終え、ネイル・ハートはふたりの顔を上目遣いに眺めた。
「どうして、父さんと母さんにも釘が刺さってるの……?」彼はおずおずとした様子でそう訊ねた。
「あれから、お前のことをさんざん探し回ったんだよ」と、ルーパスは話しはじめた。「だけど、どこを探しても見つからなかったし、誰も、お前のことを見かけた人もいなかったんだ」
 ルーパスは、当時のことを思い出しながら、悲しそうにうつむき、首を横に振った。
「そしてある日」アイーダが、その先を続けた。「わたしたち、探すのをやめてしまったのよ」
 ふたりは、ネイル・ハートの行き先を探しながら、日に日に苛立ちを募らせていった。見つからないことへの苛立ちもあったが、なによりも、息子に出て行かせてしまった自分たちのことを、心の底から情けなく思ったのだった。どうしていいのか分からなかったふたりは互いのことを責め合い、喧嘩を繰り返し、ようやくふたりそろって「自分たちが悪かったのだ。本当は、自分たちしか息子を守ることはできなかったはずなのに」とため息をつきながら納得すると、身を寄せ合って眠りについた。その翌日に目が覚めてみると、額に釘が刺さっていたのだと、アイーダは説明した。
 ルーパスは、悲しそうな顔をしているネイル・ハートの横にきてひざまずくと、息子の体を強く抱きしめた。アイーダも、そのふたりの横にきて、きつく抱きしめると、ネイル・ハートの頬に何度もキスをした。
「もう、ぜったいにお前に悲しい思いなんてさせるものか」ルーパスは涙にむせびながら、何度もそう繰り返した。
 その夜、三人はルーパスの道具箱からかなづちを持ち出した。そしてルーパスがネイル・ハートの釘を、ネイル・ハートがアイーダの釘を、アイーダがルーパスの釘を、さらに深く、額と平らになるまで打ち込み、上から大きな絆創膏を貼り付けて見えなくした。打ち込むのは痛かったし、頭蓋骨がひどく震えて不安になりもしたが、家族全員、みな同じ思いをしているのだと思うと、妙な嬉しさが込み上げてきて、自然と笑顔がこぼれてきた。
 額に絆創膏を貼り付けた三人は並んで鏡の前に立つとひとしきり笑い、それからみんな一緒にベッドに入った。だんだんと眠りの中に引き込まれていきながら、三人とも、初めて自分たちが本当の家族になったような、不思議な気持ちを感じていた。



十一、

 翌日、ネイル・ハートが目を覚ましてみると外はよく晴れていた。遠くから、犬の吠える声や、子供たちが笑う声が聞こえてきていた。顔を洗うと、まだ釘の出ていない自分の額に慣れていないせいで、なんだかおかしな気分になった。リビングに入るともうアイーダが朝食の準備を済ませているところで、食卓には、彼の大好物のパンケーキが、湯気を立てて待っていた。ネイル・ハートは甘いシロップをかけると、夢中になってそれを食べた。その様子を見ながらルーパスとアイーダは、このうえなく幸せな気持ちで胸が張り裂けそうだった。
 朝食を食べてしまうと、ネイル・ハートは着替え、外に行く用意をした。どうしても行かなくてはならないところがあった。玄関から出ていこうとする彼を両親たちは心配し、一緒に行こうかと申し出たが、ネイル・ハートはひとりで行くと言って、庭先で花を摘むと出かけていった。アリスだけが、その後ろをひょこひょことついていった。
 ネイル・ハートが向かったのは、教会の墓地だった。そこには何十という墓標が立ち並んでいた。古びて欠けているもの、苔むして傾いているもの、すっかり何と彫ってあるのか読めないほど風化してしまっているもの。その中に、まだ新しく、花が飾ってある墓標に、彼はそっと歩み寄った。墓標には「カナリヤ」と彫られていた。ネイル・ハートが額に釘を打ち付けて殺してしまった、あの少女のものだった。彼はその前に崩れ落ちるようにひざまずくと、涙をぼろぼろとこぼしながら、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝った。それで赦されるとは思っていなかったが、とにかく、そうせずにはいられなかった。できればずっと、そうして謝っていたいような気分だった。だが、誰かに見られるのが怖くなり、彼は、しばらくすると持ってきた花を墓標の前にそっと飾り、その場を離れた。そして自分の部屋に引き返すと一日じゅうカナリヤのことを思いながら泣き通し、いつしか泣き疲れて、眠りに落ちてしまった。

 ルーパスとアイーダは、息子の部屋から物音のひとつもしないので、心配そうに聞き耳を立てていた。ドアを開けてみればまた息子の姿が消えてしまっているようで、怖くて様子を見に行くことができなかった。だがやがて、何杯目かのコーヒーがすっかり冷め切ったころ、かすかに物音がすると、続けて階段を降りてくる足音が聞こえた。ふたりはほっと安堵のため息をついた。
 だが、ドアから入ってきたネイル・ハートを見て、ふたりとも驚かずにはいられなかった。また新しい釘が、息子の額に突き刺さっていたからだった。だがふたりはすぐに我を取り戻すと息子を抱きしめて「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」と声をかけた。そして、アイーダが息子の頭を床で押さえつけながらもう片手で優しくなで、ルーパスがかなづちを持ってきて、また釘を打ち込んだのだった。