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 八月三十日(木)
 Make you burn!

 今日は一日じゅう家で仕事。合間に Phantasy Star Universe で遊んだり、ビリーズ・ブートキャンプの腹筋プログラムをやったりしながら。日曜に受注して締切が九月半ばという、いきなりキツいところから入る仕事が一本あるので、向こう半月はかなり閉じこもりがちになりそうだ。まあ、いずれにしろ閉じこもりがちなのだけど。それにしてもこの時期、夏休みの終わりになると、毎年決まって「Good Luck 感想文」というキーワードで検索してこのサイトにたどりつく人がちょこちょこいるのが笑える。中高生必死だな。『グッドラック』もそれだけスタンダードになったということなのだろう。嬉しい話だ。

 さてさて、マジメくさくてダルくても、翻訳エッセイはまだまだ続きます。今日は第四回。前回の「意味の抽出」にからめて、形容詞についてひとつ。

 よく「日本語は表現が多彩で奥ゆかしい。英語は表現がストレート」みたいに言われるけれど、いやいや、まったくそんなことはない。英語のほうが表現が多彩だったりすることは意外に多い。むしろ表現の幅そのものは英語のほうが広いんじゃないだろうかと思わせられることもある。たとえば今ふと思い当たるのは『レインボーマジック・シリーズ』。訳中では「輝く」「きらきらの」「きらめく」「光る」などと苦心しながら翻訳しているのだが、これにあたる語が非常に多く、バラエティに富んでいるのだ。「輝く」と「きらめく」だけでは単調になってしまうし、かといって「きらめく」と「きらきらの」は語感がカブってしまうし……でも「光る」ではちょっとそっけないし……、と、いつも頭を抱えながらこういう部分は翻訳している。たとえば「shiny」と「glittering」の違いを出せる単語など、日本語には存在していないのだ。
 これはもしかしたら、英語が「理解する言語」で、日本語が「察する言語」ということなのかもしれない。日本語のほうが、会話や文章の背景を鑑みて、言葉を頼りにイメージするというニュアンスが強いと思う。英語では、日本語のように「あれってあれですよね」みたいな言い方はほぼしないし、主語や目的語が、原則として必ずはっきりと入る。単純に、小説の中から一文を抜き取ってみた場合「その一文だけで意味が理解できる」というスタンドアローンさは、英語のほうが絶対的に高い。

 で、そこで大きなカギになっているもののひとつが形容詞。日本語では、すごく速い車を見たときも、すごく大きな鉄球を見たときも、すごく超人的なパンチを見たときも「すごい」という言葉を使いがちだ。これに修飾語が加わり「すごく速い」「すごく大きい」「すごく強い」という言い方になる。「とても」「極めて」などなどの言葉もあるにはあるが、同じ語調ではあまり使えない。が、英語はといえば、この点すごい。
 有名なところでは、やはり「very」だろう。そのまま「すごい」である。これはまあ、基本中の基本。他にも「incredible」「unbelievable」「awsome」「bleeding」「blinking」「amazing」「eye-grabbing」「frantic」などなど、かなりの数の単語が存在している。のだが、どれひとつとっても微妙に意味が異なっている(いちいち書かないから、気になる人は辞書引いて例文など読んでみてください)。これがつまりどういうことかというと、まあ僕の持論だから確かではないのだけど、英語圏の人びとのほうが形容詞というものを強く意識しながら言葉を使っているのではないだろうか、ということなのだ。
 で、あくまでも僕の実感なのだが、このポイントを意識していないと形容詞のニュアンスを抽出しきれず、ぬるい訳文を作ってしまいがちだ。

 She started to understand what he is exactly saying.

 たとえば上記の一文。ぱっと見「彼女は彼がなにを言っているのか分かってきた」という訳文でまったく問題ないように思える。が、これは「exactly」の抽出ミス。一見なんの難しい文章でもないから油断してしまったが故の間違いである。「exactly」という言葉が入っている以上、それ以前にも彼女は「彼がなにを言わんとしているのか、なんとなく理解していた」ということになる。上記の訳文が正しいとすれば、元の英文は「She started to understand what he is saying」と「exactly」が抜けていなくてはならず、したがって、上記の例文の正しい訳としては、

 彼が本当に言おうとしていることが、彼女にも分かりかけてきた。
 彼がなにを言っているのか、彼女にもはっきりと分かってきた。

 のような感じになるんじゃないかな。最初の訳文と見比べてみると「ん? そんなに違う?」という気もしないでもないが、さもありなん。一文だけではそう感じても、実際にこの両方を文章の流れの中に置いて読んでみると、だいぶ違ったりするのだ。まあ、今の場合は僕が勝手に作った文章だから実例を示すことはできないのだけど。
 コツは「察するのではなく、単語単語と向き合うこと」。英語が「はっきり伝える言語」であり、翻訳者がその英語側の立場である以上、翻訳者が日本語を読む時と同じように察してしまったらおしまいだわい、と僕は考えながら作業をすることにしている。翻訳をはじめてしばらくは、形容詞を読み飛ばしてしまわないよう、原書をコピーして、形容詞という形容詞に赤線引いてから作業を始めたりしていた時期もあったものだ。懐かしい。

 にしても、形容詞は本当に厄介。


 八月二十六日(火)
 一週間ぶりにちょっとだけスヌーカーの練習をしてから帰宅し、昨日書いた翻訳エッセイを読み返してみたのだけど、なんとも小難しい。「興味ある人もいるだろう」と、よかれと思って書いたのだが、これじゃあ誰だって読む気を無くすに違いないぞ。しかし、もうひとつの生活の軸であるスヌーカーのことを書くと、会う人会う人に「スヌーカーの日記はよく分かりませんねぇ」だとか「スヌーカーの日は飛ばして読んでますよ。ははは」だとか言われるのがすっかり定番になってしまっているので、これもダメ。かといって、他になにか書くべきほどのことがあるかどうかというと、俺の生活はそのふたつを中心にしか回っていないので、無いのである。
 これはまったく困ったことで、俺の書くことがなかなか受け入れられないイコール俺がなかなか受け入れられないと拡大解釈もすることができ、まあそんなことはないと思うが、万が一のことを考え、念には念を入れてそう考えた場合、今後ふつうに考えてあと四十年はあるであろう人生について考えてみるに、その大半を孤独のうちに過ごすというのは非常に大変なことだろうから、まことに困ったことなのである。ちょっと大げさに考えて残り十年だとしても、けっこう厳しいものがある。
 そんなわけで、本当に他になにもないのかとじっくり考えてみると、そこにはあんまり人には言いたくない趣味などがあるくらいで「えい、思い切ってこれについて書いてしまえ」と一度は書き始めたのだが「難しい」「分からない」「人に言えない」となってしまえば、それこそ自ら墓穴を掘った上に真っ白の羽織袴で正座しながら入ったあげくに自ら土をかぶるようなものである。
 あ、そうだ。お酒が好き。お酒が好きというよりも、酔っぱらうのが好き。でも、酔っぱらった翌日はいつも決まって「もしかしたらなんか失言したかもしれないなあ」と思い、ちょっと心配になってしまう。だからその夜またお店に行って「昨日なにか迷惑かけませんでしたか」と訊ねたりするのだが、そうすると結局またカウンターに居座ってしまって、ぐでんぐでんになり、帰宅したのも憶えていないくらい酔っぱらい、朝になって「は! 失言しなかっただろうか!」と目を覚ますのである。だから、あんまり人に話して楽しい話でもないので、この話にもあまり触れないが吉であろう。ンモー。←植田まさし

 とりあえず広い話題を持つために、今の仕事がひととおり落ち着いたら、実相寺昭雄監督作品をゾゾゾッと観ようと思っています。

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 余談。

 趣味についていろいろ調べていたら「箸袋趣味の会」という会があるのを発見。
『箸袋趣味』という本まで出ているぞ!


 八月二十五日(月)
 昨日はレインボーマジック・シリーズのコスプレコンテストがあり、横浜に。春に続いて二回目となる今大会、子供たちはやはりかわいかった! 自分の訳した文章がどんな人たちの手に渡っているのかなかなか知る機会はないのだけど、このコンテストだけは別。改めてやる気のわいたことでした。レインボー大使のしょこたんは、前回のルビーに続き、今回は霧の妖精エヴィのコスプレで登場。妖精オーラありまくり。

 さてさて、早くも第三回となった「飛び出せ! 俺と翻訳ちゃん!」、今回は意味の抽出について。平たく言えば、いったいどんなことが書いてあるのか理解するということ。これがやっぱり、いちばん大事なことかな(そりゃそうか)。大事なことだから、今日はちょっと長いぞ。
 気をつけるべきポイントはただひとつといえばただひとつで、それがなにかというと「流れで訳さない」「ニュアンスだけで訳さない」ということ。なぜかというと、これをやってしまうと「誤訳とはいえない誤訳」がたくさん出来てしまうのだ。一応意味は合っているが、原文通りとは言えない。いちばん厄介なミスだ。回避方法は、とにかく丁寧に読むことしかない。

 Just then she heared the door pulled open.

 例えば上記の一文、日本語だと、こういう情景の場合「ちょうどその時、ドアを開ける音が聞こえた」とするのがいちばん自然。というのは、基本的にちょくちょく人称代名詞の省かれる日本語では、英語では目的語となる語が主語になってしまうケースが非常に多いのだ。でも、この訳は、いまいち正確とはいえない。というのは、たとえばこのシーンに複数名がいた場合「誰が聞いたのか」が問題になってくることも考えられるからだ。「彼女に聞こえた」のか、それとも「その場の人びとに聞こえた」のか、このあたりは意外にサボれない話になってくる。
 で、上記の例文で厄介なのは「pulled open」。日本は引き戸や障子の文化だったせいか「ドアを引き開ける」「押し開ける」という表現が、いまいち一般的ではない。だから普段の会話でも、ドアの開け閉めになどにふと触れたとき、引いて開けるか押して開けるかが問題になることはほとんど皆無と言っていいくらいだ。しかし「引いて開けるドア」と限定されており、なおかつ「the door」と書かれてあることから、この「she」はどのドアが開いたのか理解しているものと考えられる。でも、

 ちょうどその時、そのドアが引き開けられる音を彼女は聞いた。

 としてしまうと、なんだか日本語として非常に不自然で、やけに直訳的というか、読み心地の悪い文章になってしまう。「その」がダブっているのも非常に不愉快だ(日本語では「その」「そして」などは、削れるだけ削るに限る)。そんなわけで、こういう場合は仕方なく原文を忘れて前後の文脈に注目し、どのドアが開いたのかを考える作業に移る。「the door」である以上、割と近い場所にそのドアが登場していることは間違いないので、それを見つけるのだ。で、その文脈の流れに合わせた上で、「引き開ける」というイマイチな言葉を削り、さらに「ドアが開けられる」のような、これまた日本語ではちょっと耳慣れない受動態の表記を能動態に直してしまう(ここでは玄関のドアと仮定)。

 ちょうどその時、玄関のドアが開く音を彼女は聞いた。

 ちょっと日本語らしくなってきた。が、まだまだ。次の問題はさっき省いてしまった「pulled」。省いた以上、なにかが訳文には足りないはず。さっき「引き開ける、というのは日本語では一般的ではない」と書いたが、英語でも、必ず説明されるほど一般的かと訊かれたら、そういうわけではない。やはり、引こうが押そうがどっちでもいいような感じはある。そう思ってこの部分を見てみると「ドアが開く」というのは、自然現象としてもあり得ることなのだから、敢えて「pulled」を入れているというのは何かの狙いじゃなかろうか、というところに考えは行きつく。これは「引き開けられる」という意味であると同時に「誰かが引いた」という、そこでドアのノブを握った人間を強く連想させる書き方でもあるといえる。
 さらに「彼女は聞いた」というのも、ちょっと英語的だ。こういう音は不意に聞こえてくるものだろうし、日本語ならば「彼女に聞こえた」のほうが自然。もしかしたら「ちょうど」も取ってしまったほうが自然かも。そもそも英語で「hear」といえば「意識していないが聞こえる」というような意味であり、聞き耳を立てていたのであれば「listened」となっていると思う。なので、「注意していたわけではないが、ふと聞こえた」というニュアンスも加えておきたい。

 その時、誰かが玄関のドアを開く音が彼女に聞こえた。

 ということになる。なんと緊迫感のただよういい文章であることか(自画自賛)。場面によっては「と、その時」としたほうがカッコいい場合もある。このくらいまでになれば、僕的には合格にして次の文章に進んでもいいかな、という感じだろうか。
 肝は「自分には分かっている」ということ。ぶっちゃけた話「ちょうどその時、ドアが開く音が彼女に聞こえた」で通じるか通じないかと言われれば、通じる可能性はかなり高い。が、やはり訳漏れは訳漏れ。自分がそこまで読んで理解しているのと同じように読者が理解しているわけではないかもしれない。これに注意しないと、知らず知らず自分にしか分からない部分が出てきてしまったりして、あまりいいことはない。下手をすれば、手痛いミスにもなってしまうだろう。
 前に翻訳コンテストの審査員をしたとき、ちょっとした引っかけを出題した。というか、どれだけ丁寧に原文を見ているかが分かる部分を出題した。ウィル・ファーガソンの『Hokkaido Highway Blues』という本の一節だったのだけど、

Florida was hot excellent. They had alligator crossing signs down on the highways.

 という、日本人からアメリカに旅行した若者のセリフを含んで出題したのだ。ここでは「フロリダ」がカギになる。この文章について語るべきことはたくさんあるのだけど、とにかくポイントは後半の「alligator」だ。応募作品の八割から九割はこれを「ワニ」と訳していたのだが、これはミス。「ワニ」と「アリゲーター」が同じかと言われると、そうではない。ワニの中にアリゲーターが含まれているのだ。この若者は、フロリダの高速道路に「ワニ横断注意」の標識が出ていたから驚いたのではない。「アリゲーター横断注意」の標識が出ていたから驚いたのだ。フロリダはアリゲーターですごく有名で、このセリフは「フロリダにはアリゲーターが生息している」という情報でもある。だから「ワニ」としてしまうと、ほとんど意味をなさなくなってしまう。これも「自分には分かっているから」と、原文を拡大解釈してしまったがゆえのミスだ。「SMAPのコンサート」と「ジャニーズのコンサート」くらいの違いがあると言っていい。

 こうやって一語一語見ていくことには、意味を正確に抽出するということ以上に意義がある。というのは、流れやニュアンスでサクサク翻訳してしまうと、文章が訳者の文章になり過ぎてしまうきらいがあるのだ。これがクセになってしまうと、何冊か翻訳を重ねていったときに「この訳者が訳すと、どんな作家の本でも同じ文章になる」という現象が起きてしまう。つまり誤訳とはまた違う、訳者としてやってはいけないミス、「前に出すぎる」というミスだ。原書のためにも、自分のためにも、あんまりよろしくない。

 というわけで長々書いたけれど、今日はここまで。


 八月二十五日(土)
 さてさて、そんなわけでさっそく第二回。「それいけ! 翻訳ちゃん!」と題してお届けしております。

 で、翻訳をやる上でいちばんキモなのは「いかに原文を崩さないか」だと思います。文章の意味を崩すのもよくないけれど「原文の体裁を変えない」というもまた大事。

"Yes," She said. "I will."
「うん」彼女は言った。「そのつもり」
 たとえば上記のセリフ。こういう書き方、英語だと非常に多い。というのは、日本語と違って人称代名詞が少ないせいで「I」だけだと「あたし」なのか「俺」なのか分からず、読者が混乱してしまうからだ。そんな理由で存在しているこの形、外国文学っぽいテイストをただよわせる意味では、けっこう重要だ。これを

「うん、そのつもり」

 だとか

「うん、そのつもり」彼女は言った。

 みたいに、セリフをひとまとめにして訳してしまう人が非常に多いが、個人的に、原則としてこれはナシ。そのセリフの体裁をもひっくるめて作品である以上、訳者が勝手にいじってはダメだと思っている。昨日も書いたけれど、翻訳者は著者の奴隷。原文の体裁どおりに翻訳した上で、あとは編集者の判断に委ねるというのが正しいと思う。ただし「原則として」っていうのは、例外もあるということ。今やっている『レインボーマジック』のように子供向けの本の場合は、本人たちがわざわざ「やっぱイギリス文学よね」などと選んでいるわけではないので、そんなに外国文学っぽさを残さなくてもいいと思う。
 とはいえ、こういうセリフの形態に対してアレルギー反応を示してしまう読者が多いのもまた事実で、「あれが鬱陶しくて読みづらい」という意見も多い。でも、あれよ。古くから日本人て外国文学の翻訳版に対してそういうアレルギーを持っていたのだけど、ずいぶん解消されてきているのだ。かつては「外国人の名前のままではちょっと……」みたいな意識も強く、有名どころではあの『フランダースの犬』なんて、登場人物の名前まで日本人になってしまったのだ。ネロが「きよし」、パトラッシュは「ぶち」だ。もしかしたら他にもなんか理由があったのかもしれないけど、たぶんその辺の理由が強いんじゃないかな。フランダース地方に清もブチもいないと思うのだが。

 と、話がそれた。上記みたいなのが、原文の体裁に関するお話。これについては、まあ非常に簡単だ。要するに「原文のまんまの形で翻訳しちまおう」というだけの話である。あんまり長くなってもアレなので、今日はここまで。明日は「意味の抽出」についてのお話。


 八月二十四日(金)
 今日も今日とて翻訳作業。今月は試合に参加しないので、時間がかなり使える。今月は二冊。割といいペース。あと一週間で初稿は片付きそうだ。ただ、そこからが大変だし、ちょっと以前やってた翻訳の校正作業とモロにぶつかりそうなので、今から冷や汗全開だが、そこはオリジナル笑顔で駆け抜けることに決定。僕はえらい不器用で「何時から何時までは作業。その後は休憩、その後食事して何時に寝て何時に起きて、翌日は何時から何時まで作業……」というスケジュールが立てられない。立てたとしても、まずその通りにはできない。限界まで疲れたら仕事を休む。限界までお腹がすいたらそこで食事。限界まで眠くなったら寝る。この繰り返しだから、一日が二十四時間であることなんて、そんなの関係ねえ。

 というわけで、そろそろ多少は翻訳について語ってもいいのかな、と思い、翻訳についてちょっと書いてみようと思う。
 まず、大学院で授業の最初のほうに言われた印象的なひとこと。あそこで学んだことの多くを忘れたり、考えなくなった今でも、このひとことは毎日のように思い出す。

「Transaltor is a slave of the author.」

 つまり「翻訳家は、作家の奴隷だよん」ということ。この意味がなかなか分からなかったのだけど、最近はなんだかしっくり来ている。たとえば、一冊の本を翻訳している。他にもやりたいことがある。スヌーカーの練習もしたいし、映画だって観たい。でも、半日使って自分のために何かすることを考えると「でも半日がんばったら、もっといい訳になるんじゃないの?」という考えになる。著者は、実際の執筆期間はともあれ、長い年月をかけてその作品を完成させている。下手したら、十年や二十年ではない。一冊の作品を書くのには、そのくらいの経験が必要だと思う。なのにだ。なのに、どんなに長くてもせいぜい四ヶ月程度の翻訳期間で、いったいどこまで原書に近づけるだろう?
 著者は他人である。どんな街のどんな家庭で、どんな経験をし、教育を受けて育ったかも分からない。どんな目で世界を見ているのかも分からない。少なくとも、僕とまったく同じではない。たとえば「花」という単語ひとつとっても、彼(女)がイメージしている「花」と僕がイメージしている「花」がまったく同一であるということはない。単語レベルでもそうなのだから、一ページ、一章、一冊、と単位が大きくなって行くにつれて、原書のイメージにしがみついて訳文を作って行くというのは、本当に大変な作業になる。激流の中で流木に掴まってでもいるかのような気持ちになることもある。必死に流木に掴まりどこへ向かうのか。それは、著者のところに向かうのである。「たった今、翻訳が終わりました」と報告するために。そんなイメージ。
 だから、一ヶ月なら一ヶ月、三ヶ月なら三ヶ月、翻訳を抱えている間というのは、自分のことに時間を割くということに非常に罪悪感を感じる期間になる。著者の奴隷になって「絶対に完璧ではあり得ない訳文」を「できるだけ完璧な訳文」に近づけなくてはならない。十年の積み重ねでできた作品に対して三ヶ月。長いといえば長いが、短いといえば圧倒的に短い。

 まあ、だからといってまったく自分のために時間を使わないのかというとそうではなくて、そりゃスヌーカーやったり酒飲んだりもしているわけだけど、常に、自宅でテーブルの上に開きっぱなしになっている原書、もしくは原書のコピーに見張られているかのような気持ちは強く。どこかで「すいませんすいません」と思っている。

 次回は、どんなふうに原書に近づこうとしているのか、僕なりの方法論をちょこっとだけ解説してみたいと思う。たぶんあれだよな。ここ読みに来てくれてる方々は、そういうのにも興味あると思う。でも、あくまでも「僕なりの」なので、その辺の責任は持ちませんぜ。


 八月二十日(月)
 僕はあんまり音楽とか聴かないのだけど、そんな僕がずっと聴き続けているバンド、というかユニット? SCRIPT のライブで、十八日は高田馬場の Club Phase へ。ふたりのライブを見るといつも気合いが入る。相変わらずかっこいい。とりあえず、グッズをあれこれと大人買い。タオルかっこいいな。今度からキュータオルとして利用することに決定。
 ライブ終了後に楽屋に挨拶に行く。よくその流れでベースの渡辺さんと飲みに行くのだけど、今日は翌日忙しいとのことで何もナシ。代わりにというわけではないが、その場に居合わせたカシヤマさん(Scriptのふたりとは、Moon Child時代に一緒だったのだそうで、道理で見覚えあるわけだ)と一緒に食事がてら飲みに行き、そのまま終電過ぎまで飲む。また楽しい人と知り合ってしまった。

 十九日は仕事。合間合間に『24時間テレビ』をついつい観てしまう。あの番組はいろいろな意味で嫌いなのだけど、なんとなくつけてしまう。嫌いな理由をちょっと書いてみたら、なんか自分がすごく性格悪い人間ぽかったので消した。たぶんほんとに性格悪い。あ、江頭2:50見かけなかったな……。代わりというわけではないが、Youtubeで小島よしおをたくさん見た。

 さてさて、今月はレインボーマジックのコスプレ・コンテストに審査員として出席するため、JSAチャンピオンシップはお休み。試合へのモチベーションがついに下がりきった感があるし、ちょうどいいオフになるかな。スヌーカーは、相変わらず大好き。一週間に一回くらいしか撞いてないけどな。まあ、そのうちまた元に戻るでしょう。こういうのは一度離れて「なんだ、大したことじゃないんだなー」くらいに実感してみるのが、意外にいい薬になったりする。焦らず、のんびりと身を任す。


 八月十七日(金)
 生まれて初めて、東京都庁の展望台に登ってみた。なんてことのない普通の展望台で、外人の観光客が多かった。東京とは関係のない土産物がズラリと並んでいて、窓から外を見わたすと、横浜ランドマークタワーまでくっきり見えた。都庁すごいな。久々にゆっくりと西新宿の高層ビル街を歩いてみたんだけど、なんというか、実に気持ちが良かった。うまくデザインされているんだな、という感じ。今度からあの辺をお散歩コースにしよう。

 帰りに西口の電気街でWindowsのパソコンをちょっと見る。最近、やっぱり一台あったほうがいいんじゃないかという気になっている。僕がパソコンを使い始めたのは大学四年のころだが、当時から今まで一貫してMacなのだ。とはいえ、Windowsが必要かと考えてみると、そういうわけでもない。僕はワープロとメール、ウェブブラウザしか使わないので、ぶっちゃけた話、Macでも十分なのだ。ウイルスもほとんどなくて安心だし。しかし、見てるとほんとに欲しくなってきちゃうな。まあ、買ってもどうせ使わないんだろうな。
 ついでに、PS3のゲームを見る。こないだ本体を買ったのだけど、ゲームが『みんなのゴルフ5』しかないのである。で、あまりの本数の少なさに愕然。やはりまだPS2が主流なのか。しかも、出ているゲームはいまいち面白くなさそうなものばかりだ。誰かいいゲームあったら教えてください。ちなみに、アクション系はまったくセンスないです。

 ところで来月の二十四日に『宇宙戦艦ヤマト』のDVDボックスが発売されるらしい。

 どど、どうしよう!


 八月十三日(月)
 帰京帰京。

 大阪で知り合いの車に乗っているときに、懐かしき Mr. Bigの『To Be With You』が流れた。曲が終わったあと、しっとりとした声の女性DJが口にしたコメントで思わず爆笑。

「高い声ですね。Mr. Bigの『To Be With You』でした」

 もっと他になんかないのか。


 八月十日(金)
 今年の夏の流行語は「暑い」で決まり! って言うくらい暑い。テレビ見てると猛暑猛暑言ってるけど、そんな言葉で片付けてはいけないくらい暑い。もう「猛暑」って言葉やめて、他の言葉作ったほうがいい。これやばいんじゃない? ウチはリビングにはエアコンが入っていないのだが、もう昼間は暑くていられない。六畳のほうに引っ込みっぱなしである。自他共に認めるインドア派の僕としては、非常に厳しい。ほんとにもう、この暑さでは誰がなにをどう怠けていたって、誰にも責められない。早く過ぎ去れ夏。いまわしき記憶とともに!←シャア

 そんな猛暑(言った)のさなか、所用にて、明日の土曜日から二泊三日で大阪。観光などにほとんど興味のない僕としては、夕方に大阪入りして明日用事を済ませ、明後日午後一番の便で東京に戻る予定。今回は観光抜きの強行軍。それにしても、油断していたらすっかりお盆と重なってしまい、新幹線もホテルもあわや取れなくなってしまうところだった。危ない危ない。


 八月八日(水)
 こないだ書いたとおり、まったく不調のスヌーカー・ライフ。いちばん大きいのは今年に入ってからの練習不足なのだが、それにしても劣化しすぎである。というわけで、昨日は夜から新宿サムタイムに出かけてベーシックの見直しを計る。ここ二年、それでも練習はかなり積んできている。入る球も増えてきた。だが結果がついてこない。続けて入らない。ということは、なにか根本的なところで大きなミスを犯しているのに違いない。
 球の見え方。見方。そのときの体の位置や動き、バランス。などなど、最近考えていた問題点に辻褄を合わせるため「だったらこうすればいいんじゃね?」と、フォームをちょっとずつ直しながら撞く。と、いきなり相撞きで一年半以上ぶりとなるハイエスト・ブレイク更新。62点が出た。うおお。これは嬉しい! ただし、俗に言う「変えたてマジック(何かを修正した直後だけなんだか調子がいいこと)」である可能性も否めない。またちょっと確認のために、日を改めて撞いてみなくちゃ。
 あとは、サムタイムより暗く、僕にとってはすっかり鬼門になってしまっているスヌーカークラブでどうか。あそこの店だと「スヌーカークラブだ」というだけで参ってしまい、途端に入らなくなる。この辺りへの対処も少しずつ始めてはいるのだけど、これがどうも、なかなかしっくり来ないというか、難しい。


 八月七日(火)
 暑い。まったく暑い。
 夏がいちばん嫌いな俺としては、毎日が地獄だ。ただ飯を食いにちょこっと出かけるにしても、外に出るのは三度の飯より面倒くさい。太陽はギラギラと照りつけて俺を溶かそうとしている。すべてが憎たらしい。鼻の奥にこびりつくような、脂ぎった都会の空気が憎たらしい。憎たらしくないのは、薄着の女の白い上着に透ける、色とりどりのブラジャーばかり。俺は日陰を選んで歩く。あと一ヶ月はこんな日が続く。まったく過ごしにくい季節だ。くそったれ。汗の流れる首筋を、腐ったミカンの皮みたいなものが駆け上ってゆく。くそったれ。ああまったくもう。めんどくさーい。やってらんなーい。鬱陶しーい。やってらんなーい。
 いやしかし、この糞いまいましい夏の野郎をひと夏じゅう呪い続けて暮らすわけにもいかなくて、夏の間にだってやらなくちゃいけないことは多いわけだし、そうなるともう「なんでこう不快なんじゃい」などと考えてみると、それは自宅に閉じこもって仕事をしているせいで運動不足になり、すっかりメタボリック症候群予備軍へと身を落としてしまったのが、やはりこうも汗をかく最大の要因であろうということは俺みたいなバカでもクズでもすぐに分かることで、俺としては「あーあー分かりましたよ。俺が悪いんだよ。すいませんね夏さん、責めちゃって。へへへ」などと自虐的になりながら、バカみたいに歩行者用信号機が変わるのを待つしかないという始末。まったく夏は、俺を自虐的にする最低の季節だ。
 それで、信号を渡ったところに最近麻婆豆腐の専門店なんてできちゃったもんだから、ついついそこに吸い込まれるように入ってしまい、せっかくクーラーの効いた心地よい店に入ったというのに、またここでもバカみたいに髪の毛の毛根から汗をかきながら、辛い麻婆豆腐など食べちゃったりなんかしちゃったりして、あーもう俺ほんとにバカだなあなどと、ここでも自虐的になってしまうのである。ついでに、馬みたいに水なんてガブガブ飲んじゃって、せめて何かに対して優位に立とうと思って砂漠で一滴の水を求めてさまよい歩いている旅人のことなど頭に思い描いてみるのだけど、そうしたらそうしたで「ああ、俺ってばそんなにかわいそうな人たちのことを考えて自尊心を保とうだなんて、やっぱ腐った根性してるなあ。俺最低。へへへ」と、ここでも自虐的になってしまうのであった。

 早く夏が終わりますように!


 八月一日(水)
 スヌーカー、この不調の間、よく『北斗の拳』に出てきたラオウとコウリュウのことを思い出す。ラオウはケンシロウと、一子相伝である北斗神拳の伝承者を争った男。つまり、めちゃくちゃ強い。そしてコウリュウはラオウとケンシロウの師匠であるリュウケンと伝承者を争った男である。つまり、めっぽう強い。
 ラオウがケンシロウとの闘いで負った傷を癒すため、隠居しているコウリュウの元を訪れ、これを倒すシーンがある。このとき「お前を倒さねばこの傷が癒えぬ」というようなセリフを言っており、倒した瞬間「傷は癒えた!」と叫ぶのであるが、これが、まだ子供だった僕にはよく分からなかった。「なんで戦うだけで傷が治るんだろう?」みたいに、不思議でたまらなかったのだ。
 これが、メンタルの問題だったんだなと思ったのは、今年に入ってからだった。練習ではけっこうなんでも入る。だが試合では入らない。僕にとってのコウリュウ、つまり自分の認める強い相手を今の自分の力で倒さない限り、びくついたメンタルがビシッと前を向くことはないのである。ラオウもまた、ケンシロウに傷を負わされたことで、メンタルを崩していたのである。自分には力がある。だが、もしかしたら無いのではないか。それを確かめるためにコウリュウを撃破し「よし、やれる」と、心の傷を癒したのだろう。体の傷はそれ以前に、すっかり癒えていたのである。ただ、癒えていないのではないかと、怖かったのだ。
 あのとき、ラオウはもしコウリュウに負けていたら、それはそれで納得して死んで行ったのだろうと思う。そうしなければ、生きているの意味を見出すこともできず、やさぐれた人生を送っていたことだろう。コウリュウを倒し、ケンシロウと闘い、そして負けたからこそ「我が人生に一辺の悔い無し」なのである。北斗の拳、深い。

 ここ数日「もう試合なんて出るべきじゃないかなあ。俺なんてしょせん物書きだもんなあ、トホホ」なんて思っていたが、やはり、それではいけない。本気でやっていることに、そんなふうに背を向けてはいけない。とりあえず向こう二年は試合を戦い、それから決めるとしよう。


 八月一日(水)
 どう書いていいのか分からないまま十日ほども過ぎてしまったが、兄マリオ氏のイベント、『PSYCHE-GA-DELIC マリオ曼荼羅ウィーク』に、二十日、二十四日、二十七日の三日間行ってきた。あのぶっとんだイベントを見てびっくりされた方、驚いた方は多かっただろうが、たぶん、僕はトップクラスのびっくりさんだったはずだ。これまでに僕たちは一緒の家で育ち、仕事でも接点を持ち、いろいろあったものの幸運なことに憎み合うようなこともなく、多くの共通項を持ちながら三十余年を生きてきた。そんな中、ふと清澄白河にて出会った、僕のまったく知らない兄の姿。
「うわあ、こんなもんが頭の中に入ってんのか、この人」と、呆気にとられてしまった。壁一面の曼荼羅。出てくる出てくる。書き上げたものは幾度となく目にしていたのだけど、実際目の前で描いている姿を見るのは初めてだったのだ。あのライブペインティングは、ぜひ今回だけでなく、回を重ねていろんな人に見てもらいたい。僕主催でも企画してみるつもり。

 さてさて、スヌーカーの07-08シーズンが開幕。予選は三戦全勝で通過したものの、決勝トーナメントでは絶不調。今年に入ってからスランプが続いているが「ついにここまで来たか」くらいのスランプ。プレイするのが嫌になってしまうほどで、自分にブチ切れてしまった。球は以前よりどんどん入るようになってきているが、持続力がない。一球一球ならば入るのだが、続けて入れろと言われると、これが非常に難しい。ここ一年、特にこの半年、どうも頭の中にもやがかかってしまったようにはっきりせず、思考が散らかりがちなのが災いしているようにも感じる。仕事やスヌーカー以外のなにかが足りないんだろうな。やはり、物語を書かないと。持論だが、スヌーカーでいい球を撞き、いいブレイクを出すには、生活の刺激が必要だ。じゃないと、球が活き活きとしてこない。去年の岡山以降は割とコンスタントに上位に顔を出すことができていたのだが、ここ半年くらいは、地方のプレイヤー意外にはほとんど勝てていない。

 今ニュースで「炎天下の中」と言っていた。テレビの日本語は、ほんとぬるいなー。